毎日のように「これでよかったのかな」と立ち止まることがありますよね。
私自身も、教員として学生をかかえていたり、また、3歳の子を育てていた頃に、
「もっと優しく声をかけられたのでは?」
「ちゃんと気持ちを受け止めてあげられたかな?」
と後悔することが何度もありました。
そんな時に出会ったのが、慶應義塾の塾長を務めた教育者・小泉信三の言葉です。
彼の残した数々の名言は、時代を超えて、子どもと向き合う私たち親の背中をやさしく押してくれます。
中でも有名なのが、「練習は不可能を可能にする」という言葉。
この言葉には、小泉信三自身の体験が深く関わっていました。
子どものころから熱中していたテニスを通して、彼は「努力が人を変える」ことを実感していったのです。
では、その背景を少しのぞいてみましょう。
1. 小泉信三とはどんな人?
小泉信三(こいずみ・しんぞう)は、明治から昭和にかけての日本において、教育者・思想家として大きな影響を残した人物。
慶應義塾大学の教授になったとは、塾長になった、ということで知られる一方、
戦後の天皇教育に関わったことでも歴史に名を刻んでいます。
現在の皇太子さまのお父さんが、皇太子出会った時に、教育係をされていたのです。
ですが、彼を単なる大学人としてだけ捉えるのはもったいなく
小泉信三の生涯をたどると、思想や教育論だけでなく、一人の父としての葛藤や、家族への深い思いに触れることができるのです。
本稿では、教育者としての功績とともに、家族や周囲の人々との関わりに目を向けることで、小泉信三という人物像を浮かび上がらせたい。
そこには、時代を超えて私たちに響く「意外なきずな」の物語があるかもしれません。
2. 小泉信三「練習は不可能を可能にす」―努力を楽しむ子に育てるには
「練習は不可能を可能にする」小泉信三が、後年に語った有名な事ががあります。
これは、慶應義塾塾長であった小泉信三は、「スポーツが若者に与える3つの宝」として、
の3点を挙げている、時のことばですが。
さて、この言葉が生まれたきっかけは、小泉信三が、小さなころから熱中していたテニスにあります。
小泉信三の生い立ちについては、後述しますが、
14歳になったころに、慶應義塾普通部(中学)に入ります。
慶應普通部で庭球部(テニス部)にはいり、テニスが大好きになっていくのです。
当時、テニスをやっている学校は4つぐらいでした。
一番強いとされていた、東京高等師範学校(のちの東京教育大学で、現在の筑波大学)と、
二番目に強いとされていた、東京高等商業学校(現在の一ツ橋大学)です。
さらに、慶應義塾が明治34年に、早稲田が明治36年に庭球部を発足しますが、
慶應はまだまだ弱いチームとされていたのです。
小泉信三がその強いチームに勝利するのです。
ですが信三が、テニス部に入部してからは、三田の山にあるテニスコートを、一人黙々とコートを整備もしながら
誰よりも練習を重ね、同時に、どうやったら強くなれるのか?を良く研究しました。
テニス三昧を続けた小泉信三が、評判も実力もともにナンバーワンになったのは、入部して2年がたった、16歳の頃、
猛烈な練習を繰り返した信三は、技術的にも、部内で認められるほどになり、テニス部の大将にまで成長するほどだったのです。
その後、小泉信三は、はじめて自分の活躍で宿敵
日本のテニス界で1番・2番を争う、東京高等商業学校(=今の一ツ橋大学)に慶應義塾が勝利する、という歴史的シーンを作ったのです。
さて、このような中でうまれたことばが、「練習は不可能を可能にする」なのです。
何度も繰り返して練習することで、不可能だったものが、可能になる。
基礎から学ぶこと、努力出来る人間であること、これが大事であることはわかります。
でも「これは、努力すればなんでもできるようになる」という意味で言われているのでしょうか?
確かに努力は大事です。努力できることは才能です。
ただ、どんな小さい人でも、相撲の力士になれるのか?というところまで究極を考えますと、それは少し違うように思います。
親として大事なことは、その子の向き不向きによっては、考えた方がいいということですね。
子どもの向きと不向き、というものを、親がきちんと見てあげなければならない、そんな風に思いますね。
猛烈な努力をし続け、このような言葉を生み出す、小泉信三って、どんな育ちなんでしょうか?
次の章では、小泉信三の生い立ちから~中学時代までを追っていきたいと思います。
3. 小泉信三とは?―慶應義塾を支えた教育者になるまでの 生い立ちは?家族構成は?
小泉信三は、明治時代に人物で、慶應義塾という学校に育ち、卒業後は母校の教授になります、
教授になった後は、塾長(慶應義塾の中でトップの方)になります。
戦争があった時代で、戦後の復興の中で日本がどんどん大きくなっていく中で、
学校の先生、というよりは、この時代の中での「国の先生」ともいえるでしょう。
そんな小泉信三は、どんな育ちだったのでしょうか?
生い立ちから見ていきましょう。
小泉信三の生い立ちを分かり易く
小泉信三は、1888年4月5日に、東京都港区三田で生まれます。
父(信吉=のぶきち)や母(千賀=ちか)も和歌山県の出身でしたが、父の信吉が、福澤諭吉の蘭学塾に入って勉強していた経緯から、
初めは大蔵省(現在の財務省や金融庁)の役人などのお仕事をしてましましたが、
学生時代からの福澤諭吉の信頼が厚く、慶應義塾の塾長まで務めた人でした。
小泉信吉が慶應義塾の塾長だったため、当時から(また現在も)慶應義塾大学のある港区三田に住まいがありました。
小泉信三は、信吉の3番目の子供にあたるので、「三」がついています。
実は、信吉の長男であった「七三(しちさん)」は生まれて間もなくなくなってしまいます。
その次には長女が生まれましたので、信三が3番目というわけです。
小泉信三の下には、妹が2人います。

信三さんは、女の子の間に育ったのね。
小泉信三の父 小泉信吉を死をきっかけに、福澤諭吉にひきとられる
小泉信三がまだ6歳だったころ、父の信吉が45歳という若さでしたが、病気でなくなり、
小泉信三が小泉家を継ぐ跡取りとなるのです。
そのころは、横浜の御田小学校に通っていましたが、東京の慶應義塾の構内に引っ越す事になるのです。
というのは、信三の父、信吉の恩師である福澤諭吉が、自分住んでいる三田山の邸宅の一等に、恋済一家を住まわせたのです。
福澤諭吉は当時60歳でした。
小泉家の皆は、福澤諭吉の深い愛情に感謝して、尊敬しながら過ごしていくことになるのです。

還暦をむかえつつある福澤諭吉が、小泉家のみんなの恩師となっていくんだね。
福澤諭吉と小泉信三のエピソードも気になりますね。次のところで触れていき
小泉信三が記憶している福澤諭吉との出来事
福澤諭吉は、小泉一家を、自分の邸宅に住まわせますが、
なにからなにまで親切に、世話を焼くということではなかったようです
そっと静かに見守っている感じです。
小泉信三が記憶している福澤諭吉の姿は、驚くほどによく運動していたということです。
例えば、福澤諭吉が、毎朝薄暗い時間に起きて、散歩をしたり、朝食前には米ついたり、
食事後は、そして剣道の素振りのように、
大きな刀を素早く抜いて、そして振る、という動きを朝8時半ぐらいから3時間休まず続けたということです。
そんな福澤諭吉のこと、特に「すごい人だ」とは感じることはなかったそうです。
当時まだ小さいこども(7歳くらいの)だった小泉信三ですから、それは当たり前かもしれませんえ。
小泉信三は、「先ず獣心をなして後に人心を養う(まずじゅうしんをなして、のしにじんしんをやしなう)」というのが福澤諭吉の根底にある考えであることを後に知りますが、
つまり、肉体を丈夫に成長させて、そのうえで精神的な発達を心がけるべきだ、ということ
です。(順番が逆では双方とも発達が難しいのです)
福澤の身長が173センチ、体重は67キロ、これが生涯ほとんど変わらなかった、というのですから、すごい事です。
当時の時代背景を考えとると、わたしも驚きます。
あと習字のお手本をを書いてもらったことや、福澤の孫が、当時の信三と1歳違いだったので、
一緒によく家の芝生で遊んだり、福澤諭吉と奥さんと一緒に、上野動物園で連れて行ってもらって、乗馬をしたり、かき氷ご馳走になったり、
小さいことですがよく世話になったこと、後から感謝していくわけです。
福澤諭吉が亡くなってから、小泉信三が御田小学校から慶應義塾に入るまで
福沢諭吉は、1901(明治34)年に、二度目の脳溢血(のういっけつ)にかかり、三田のご自宅で亡くなります。
小泉信三は当時13歳でした。
父親代わりの恩師がなくすころになり、信三は、おいおいとか、ぎゃあぎゃあ泣いたのかというと、
意外にもそうではなかったそうです。
14歳になった小泉信三は、御田小学校の高等4年生でしたが、慶應の中学校(慶應普通部)の2年に編入することになります。
中学に編入しちゃったと聞くと、ものすごく頭がいいとか、成績が上位のイメージですね。

飛び級したんじゃないの?
いいえ違うのです。飛び級とかではないのですよ。
高等科4年というのは、現在の中学2年のことですから、飛び級したわけではありません。
当時の小学校は、現代の6年制とは違い、4年間のみが義務教育。
当時、勉強が出来るタイプの人は、小学校の4年を終えるとそのあと高等科2年(今の小学校6年)終えて、中学の入試をうけて中学に行くのです。
小泉信三は、勉強はよくできる方だったようですが、高等科2年が終わってからもずるずると在籍して高等科4年(つまり小学校の6年に+2年追加された状態)まで在籍していたのです。
それを見かねた信三の従兄がいました。
慶應義塾の大学部に在籍していた津山英吉(つまや・えいきち)です。
大学部の従兄が、それを心配して、慶應義塾の塾長である鎌田栄吉(かまた・えいきち)に頼みこみ、
慶應義塾普通部の3学期から、編集を許されたのです。
小泉信三は、こうして慶應義塾の学生(=塾生)になったというわけ。

福澤先生だけでなく、小泉信三氏は、従兄とか、親類にも感謝というわけだね、
そうなのです。
このような経緯で慶應義塾にはいりますが、
慶應にはいってから、スポーツも、学業も、人間関係も、多くの事を吸収していきます。
小泉信三が、慶應の環境を気に入ったという、最初の出来事は、
御田小学校ののころにあった、先輩後輩の上下関係がなく、
年上のひとも、年下のしとも、自由に話しをしている環境がすごくよかった。
上の人にしたの人が命令されて従わなければならに、というような閉鎖的なことはなく、お互いに「~さん」と言い合い、立場を尊敬しあいながらも自由に発言できる、そのような環境に感銘を受けていきます、
努力と根性が大切であもある、テニスを頑張りたい、と思えたのも、そのような環境があったからこそなのですね。
4.小泉信三から学ぶ 子どもを伸ばす親の姿勢その1まとめ
小泉信三の人生をふりかえると、そこには知識や肩書きよりも、何よりも「目の前の事に向き合うこと・人を育てること」への情熱が感じられます。
スポーツや勉強も極めて行くなかで、彼が向き合っていたのは常に生きた人間であり、その成長をどう支えるか、という問いでした。
今回ご紹介したのは、小泉信三の歩みのほんの入り口にすぎません。
彼の生い立ちや家族との関わりには、子育てに役立つ視点がたくさん隠されています。
「子どもをどう伸ばしていくか」「親としてどんな姿勢でいればよいか」――
次回は、そうしたヒントを信三の生涯からさらに探っていきたいと思います。
参考文献 「小泉信三展」
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