独立自尊とは?意味を分かりやすく簡単に解説
独立自尊(どくりつじそん)という有名な言葉があります。福沢諭吉が関係しています。
福沢諭吉といえば1800年代(日本の明治時代)の、日本の近代教育の基礎をつくった人物です。
近代国家の啓蒙思想家である、とも言えます。
ただ、ありがちなパターンとして「独立自尊も福澤諭吉も言葉や名前の存在は知っているけれども、どんな意味なのか、どんな人物なのかはよく分からない多いのではないでしょうか。
もしあなたがそうだとすれば、それはとても勿体ないことです。
ここで理解を深めていきましょう。
長い話を簡単に一言でいうとすれば、独立自尊とは、「自分の力で生きる」ということです。
では「自分の力で生きる」とはどういうことかというと、
他者を頼らず自分の力で生き、人間としての尊厳を守りぬく」ということです。
それを四文字でまとめたものが「独立自尊」です。
独立自尊については、福沢諭吉が亡くなった後に、お弟子さんたちによって、福澤諭吉の教えをまとめられた書物があり、そこで多くまとめられています。
独立自尊を収めた書籍修身要領
「修身要領(読み方はしゅうしんようりょう、です。)」という本がその代表です。
この修身要領では、「独立自尊」を含む20世紀を生きる若本達にむけたメッセージが書かれています。
本の内容は、生きる上での基本的な指針を示したものになります。
この修身要領の中に書かれている内容はどうやって作られたのでしょうか。
それは、福澤諭吉が自分の弟子たちと話をしていたときのことだったそうです。
れから、20世紀を生きる若者は、どんな考えを持ち、どんな方向で進んでいけばよいのか、と話していたときのことです。
この時、福澤諭吉を交わした質疑応答をもとに、福澤の弟子たちが29条にまとめ、福澤がチェックして1900年に発表されたものです。
なぜこれが大事なのか、次のところでみていきます。
福澤諭吉はなぜ独立自尊を説いたのか?
なぜ説いたのか、それは福澤諭吉にとって「独立」が何かといえば、と「国の独立」と「個人の自立」の結びつきにあったといえます。
当時は国家というものが、今からでは想像できないくらい小さいものだったのです。
福沢諭吉が生きた時代は1835年~1901年です。
これは日本の明治時代にあたります。
この時代には、いまでいう民主主義の考えができていなかったのです。まず日本の国が、今のように独立できるかどうか、というのが非常に大事だったのです。
つまり明治時代の「独立」といえば、言うまでもなく生まれて間もない明治日本が、世界の中で近代国家として独立していけるかどうか、の意味があります。
そして人間ひとりひとりの個人の自立という意味もあります。
「学問のすゝめ」においては、わが日本国民も、今から学問に志し、しっかりと気力をもっていくこと。
まずは一身の独立を目指し、それによって国を豊かにすることができれば西洋人の力などは恐れる必要はない、と次のようにのべられています。
我が日本国人も今より学問に志し、気力を慥(たし)かにして、まづ一身の独立を謀り、したがつて一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るに足らん。道理あるものはこれに交はり、道理なきものはこれを打ち払んのみ。一身独立しえ、一国独立するとはこのことなり。☆「学問のすゝめ」第三編より
国民一人一人が賢くなって自立すれば、国も立派に独立できる。アメリカなどの西洋の国々の事も恐れる必要はない、といっています。
「独立の気力なき者は、国を思ふこと深切らず」
とも言っています。
要するに独立の気概がない=自分の身を立てる気力もない、そのような者は、国家に貢献する力もない、というのが福沢の考えなのですね。
以上、1800年代から1900年代での日本の明治時代は、このような独立、独立自尊というのは歌われていなかったのです。
天皇主権の時代で、それに逆らうと反逆者として罰せられてしまうような時代でした。
今では国民主権の時代です。
国民一人一人が権利を持っている。
しかし、当時はそのようなことを言える環境になかったので、「独立自尊」という4文字に置き換えていったのでしょうね。
独立自尊の考え方は? 独立とえん望は表裏一体
さて、独立心のない人間は良くないということが述べられていまた。
なぜよくないのでしょうか?それについてはこのような文章があります。
「独立の気力なき者は、必ず庇護に依頼す。人に依頼する者は、必ず人を恐る。人を恐るものは、必ず人に諂ふものなり。常に人を恐れ人に諂う者は、次第にこれに慣れ、その面の皮鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥ぢず、論ずべきを論ぜず、人をさへ見ればただ腰を屈するのみ。いはゆる習い証となるとはこの事にて、慣れたることは容易に改め難きものなり」
「学問のすゝめ」(第三編)
独立の気概がない人は、必ず人に頼ることになる。
人に頼ると、必ずその人のことを恐れるようになる。
人を恐れる人は、必ずその人にへつらうようになる。
へつらう人は、だんだんそのことに慣れてしまい、習慣になってしまうので、簡単にはやめられなくなる。
その結果、恥じるべき事を恥じない、論ずべき事からも逃げて論じないで、他人をみればただ卑屈になるだけになってしまう、ということなのです。
つまり独立の精神がないと、他人もの羨むような生き方になってしまう。
人生をいきいきと生きるためには、自由にものを言い、働き、その結果は本人が選び取ったものであるべきですよね。
ただ、他人を見て卑屈になってしまうと、恨みに思ってしまうことや、ねたみ、また恨んで不平を抱くことにもなってしまいます。
結果他人を不幸におとしいれようとするような悪事を起こしてしまうということにもなるのでしょう。
福沢諭吉はこのねたみ、そねみ、嫉妬のようなことを「えん望」という言葉でかたり、えん望こそが、悪徳以外のなんものでもないことを述べてきたのです。
そしてその原因は独立」といえる自由がないこと。独立があれば「えん望」はない、とも考えているのです。
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