岩田剛典(いわた・たかのり)さん。
岩田さんと言えば、EXILE、三代目J-SOUL-BROTHERSとして華やかな舞台に立ち続けました。
また、いまではパフォーマーとしてだけでなく、俳優としても大人気です。
ドラマ『ドクタープライス』で見せた、冷静さと情熱が同居する難役。
俳優としての岩田剛典さんの表現力に「お?」と感じた方も多いのではないでしょうか。
今よりも若い頃はどんなだったのでしょうか?
実はその裏には、華やかな芸能活動だけでは語れない、意外な背景があります。
今回は、岩田剛典さんの生い立ちとは切り離せない、ご実家や経歴、ご家族との関係、そして芸能界に進む選択に秘められた想いを深掘りします。
1.岩田剛典 生い立ちは? 中学からの慶應でのエリート路線
① 岩田剛典 生い立ち~中学受験
岩田剛典さんは、1989年3月6日生まれ。B型。
愛知県名古屋市に生まれ、1995年から、小学校は名古屋市陽明小学校に進まれます。
当時はわりと内気で引っ込み思案な性格だったそう。
父親の岩田達七(いわた・たつしち)さんが慶應義塾大学出身だったことから、
「お前は慶應に行くのだ」といわれながら、大学受験ということではなく
小学校時代から勉強をはじめ、過酷な中学受験を経験します。
慶應の附属中学を受験するためですね。
慶應の中学は、中学受験の上ではかなりの難関校ですから、(偏差値69~74あたりです)
当時は塾を掛け持ったり、家庭教師をつけたり、かなり勉強付けになっていのです。
最近は受験を扱うテレビドラマでもあるように、成績順に塾のクラス分けされたり、点数が貼り出されたりということは、当時から当然のようにあったはずですね。
努力の甲斐あって
2001年、岩田剛典さんは、見事に慶應義塾普通部(慶應の男子校の中学)に合格!
慶應普通部(所在地が神奈川県横浜市日吉)なので岩田さんはお母さまと一緒に上京されて、学校に通うことに。
私事ですが近い知り合いに、慶應普通部卒業生がいて、その人のもっているアルバムに、岩田剛典さんのお名前が載っていますので、間違えなく普通部のご出身でしょう。
またインスタグラムなどには、当時のお写真(学ラン)もでていました。
普通部は制服があり学ランです。
(系列の中学で、慶應義塾中等部もありますが、そちらは共学で学ランではないのです。)
今よりは頬がふっくらしていて、目の優しさはは今と同じ様子で、ファンが見ても嬉しいですね!
気になる方は見てみてください。
➁岩田剛典 慶應高校、大学時代
中学受験で慶應普通部に進学し、当時は空手やバスケ部を兼部していたそうです。
普通部は、受験校ではありまえんが、理科などのフィールドノートなどの課題の提出も多く、授業についていく事を考えると、勉強だけでも楽ではありません。
そんななか、運動部を掛け持ちする、となると、やはり中学受験で鍛えた頭脳に相当余裕があったか、よほどの運動好きか、というところですね。
パフォーマーとしての今のご活躍を考えると、両方に納得ですが。
普通部の後は、慶應義塾高校、慶應義塾大学法学部へと進まれ、所謂、王道のエリートコース。
将来は家業を継ぐか、安定した企業に就職する可能性が高いと思われていました。
しかし大学在学中、彼の人生を変える出会いが訪れます。
実は、岩田剛典さんは、高校時代にラクロス部にはいり活躍もしますが、
部活の引退後から、以前から関心の高かったヒップホップ系のダンスに明け暮れます。
慶應大学では法学部政治学科(偏差値67.5)に進学後、友人に誘われて入ったダンスサークル「Dancing Crew JADE」でダンスの魅力に目覚め、のめり込むように。
大学4年のとき、JADEとして参加したイベントで、NAOTOさんの目に留まり、
三代目J SOUL BROTHERSのオーディションに挑戦しないか?と誘われ、見事合格したのです。
ちょうどそのころ、大手企業から内定ももらっていたそうですが、それを断って、ダンスの道にはいります。
高校時代時代の後半から始めたダンスですが、大学の時にオーディション合格とはすごいですね!
「やってみたい」という好奇心と、「後悔したくない」という想いが、エリートコースを外れてでも芸能界を選ばせた大きな理由、だと思います。
2.岩田剛典 幼い頃から見てきた家業 老舗靴メーカー「マドラス」
岩田剛典(いわた・たかのり)さんのご実家ですが、名古屋に本社を構える老舗靴メーカー「株式会社マドラス」。です。
1921年(つまり大正10年)5月18日の創業、という長い歴史を誇り、イタリア靴の輸入や自社ブランドの製造販売で知られています。
名古屋だけでなく、東京は浅草に、札幌にも拠点があります。
グループ会社も含めて600人以上の従業員数です。
マドラスは全国の百貨店や専門店に商品を展開し、品質の高さから多くのビジネスマンに愛されてきました。
紳士靴だけでなく、婦人靴作っておられます。
岩田さんは、そんな家業の「御曹司」なわけです!
というのも、現在のマドラスの社長は岩田さんのお父様、岩田達七(いわた・たつしち)さんです。
創業者は、岩田剛典さんの高祖父にあたる岩田武七(武七)さん。
岩田武七氏は、第一次世界大戦中に、靴事業を開始したのです。
戦後も、岩田武七さんをはじめ、職人さんたちの、たくさんの汗と努力の甲斐があって、
今に繋がるように会社が大きく成長し続けてきたわけです。
私自身、以前に、百貨店の従業員の研修に携わることがあり、名古屋松坂屋本店の店舗に立たったことがあるのですが
婦人靴売り場の「マドラス」さんコーナーは、
毎日必ず上品なマダムが現れ、定員さんと楽しく会話をされて満足気にに合うお靴を購入される姿があり
また、販売員さんらは背が高くすらっとした雰囲気の男性たち。
異性のお客さんの靴選び関しても、接客が違和感なく、というよりむしろとても自然で
ホスピタリティーにあふれる対応されていて、私自身多くの事を学ばせて頂きました。
靴の製品の良さに自信があることとはもちろんですが、
その靴だけではない、靴をはくことでお客様が幸せになっていくこと、
それがスタッフさん一人一人にすごくよく伝わっている、元気で明るい会社さんなんだ、と感じたのを思い出します。
3.岩田剛典 生い立ちは?父との関係と家業への思い
①岩田剛典 家族の反対を押し切ってなぜ芸能界にすすんだか
さて、岩田剛典さんのお父様が「マドラス」の代表取締役社長。
経営者として多忙な日々を送る姿を幼少期から見てきた岩田さんにとって、父は尊敬すべき存在であり、家業は身近なものだったはず。
大学4年生の時、内定が決まっていたにも関わらず、オーディションをうけて、芸能界に進みたい、と岩田さんが話した時は、
芸能界にすすむことは、お父様も難色を示した、と岩田さんは語っています。
いずれは家業であるマドラスの、経営を支えてくれることを視野にいれて中学受験させたからですよね。
ただ、お父様は意外とすんなりと背中を押してくれたそうです。
賛成しているというよりは、「やれるものならやってみろ」という思いもあったかもしれません。
芸能界において「どうせすぐ売れなければもどってくるだろう」ぐらいの思いだったかもしれません。
こんなにも岩田さんが人気で、大ブレイクしてしまったことはある意味誤算だったかもしれませんね!
幸い、岩田剛典さんには、おひとりお兄さんがいらっしゃり、
お兄様の岩田敏臣(いわた・としおみ)さんは、すでに会社に入り、取締役兼本部長職として経営を支えていらっしゃるのです。
そのことは、岩田さんが家業にすぐにはいらず、芸能界に進まれることがゆすられた理由の一つにもなるかもしれません。
当初岩田達七さんが、岩田敏臣さんと、剛典さん、どちらに継がせるのがいいと考えていたかは、もちろん分かりかねますが、
とりあえずや良かったという見方もできます。
➁岩田剛典 家業 靴への思い
岩田剛典さん自身は芸能活動に専念しているため、事業承継の直接的なルートからは外れてしまっていますね。
マドラスの名を広く世間に届ける役割を担っているともいえます。
と言いますのは、2021年から、広報や宣伝部門で肩書きを持ちつつブランドのPRに関わっていらっしゃいます。
岩田剛典さんは、マドラスが展開するブランド「NERD MIND(ナード・マインド)」のクリエイティブ ディレクターを務めていらっしゃいます。
この「NERD MIND(ナード・マインド)」=オタク気質=職人気質をコンセプトにした人気のシューズです。
こちらのブランド私も写真で見ましたが、おしゃれなのに、足幅が広めなので楽にはけそうで、また気負わないファッションにも合いそうなかっこいいシューズです!
また最近では、NERD MIND(ナード・マインド)とファッションブランド STUDIO SEVENとのコラボレーションもしている岩田さん。
このSTUDIO SEVENとは、EXILE/三代目 J SOUL BROTHERSのNAOTOがクリエイティブディレクションをしているとのこと。
このように、岩田剛典さんが芸能界で培った発信力が、実家の事業にもプラスに働いているといえますね!
岩田剛典さんも、家業への思いがあるからこそですし、おうちの方も、岩田さんの活動を認めて下さっていまがあるからこそ、だと思います。
4. 岩田剛典 母の反対を押し切った芸能界入り
岩田剛典さんお芸能界入りを最も強く反対したのはお母さまだったと言われています。
「反対」という言葉が適切かどうかわかりませんが
「芸能の道を選んだ時には涙を隠せなかった」のです。
それはある意味当然の事と思います。
中学受験をするときの、親の努力というのは、計り知れないものです。
もちろん学力を伸ばすのは本人でありますが、思春期の子を、勉強に集中させて、
志望校の受験日にコンディションとパフォーマンスを最大限に発揮させるということのには、
親の力もあるのですからね。
また、岩田さんのおうちのは場合は、実家の名古屋を出て、息子と一緒に上京してきた、という思いも少なからずあるでしょう。
お母さまは、大手老舗の経営者の妻として、、また二人の息子の教育者である母として、
に拠点暮らしになったことで、大変なご苦労もあったとお察しいたします。
「このようにして、せっかく慶應を無事にでて、将来は、経営者として息子に後を継がせよう…」という親心と、
芸能界の不安定さへ(花開くかわからない、成功し続けるかわからないという意味で)の懸念が理由だったといいます。
それでも岩田さんは、「自分の人生は自分で選びたい」と覚悟を持って芸能界へ飛び込みます。
もちろん、岩田さんとしても、これまで育ててくれて大好きなお母様に、やりたい事を認めてもらえてない感覚には、複雑な思いがあったことでしょう。
オーディション合格を告げたとき、母は驚きと心配が入り混じった表情を見せたそうですが、
その選択が後に大きな成功へとつながっていきました。
暫くしてから、J-Soul-Brothersのコンサートを見に行ったことで、岩田剛典さんの活躍を本当の意味で認めることができ、
息子がのやりたいと思う方向で、力を発揮できてよかったな、と安心されたのです。
5.岩田剛典 生い立ちから、実家の家族との絆と芸能活動
EXILE、三代目J SOUL BROTHERSのパフォーマーとして、また俳優としても確実に存在感を増す岩田剛典さん。
今では家族も彼の活動を誇りに思い、応援しています。
舞台やライブを訪れる家族の姿もたびたび目撃され、芸能界で輝く息子を温かく見守っているようです。
そもそも、ヒップホップに興味をもったきっかけは、家業を継ぐためにもアメリカに留学されていたお兄様が、
一時帰国のために流行のヒット曲のアルバムをお土産に持って買ってきてくれていた、ということがあったんですね。
母の反対を押し切って選んだ道は、結果的に家族全員を笑顔にする道となっています。
岩田家にも、岩田剛典さん自身にも、「才能を育む力」が備わっていたからだと私は思います。
岩田剛典さんの「自分のやりたいことを自分でみつけていける。進みたい道を決断して、才能を伸ばす」これは素晴らしいことですし、
岩田さんがパフォーマーとして活躍することが、世間から求められていたからこそ、花開いた、のだと思います。
このように、自分自身のやりたいことと、社会からのニーズの合点を見つけている、
これは既に創業者であったおじい様のような起業家マインドに近い物と言えます。
岩田剛典さんが選んだ芸能界という道は、ご実家のような老舗からすれば、異色な道に進んでいるようではありましたが
「安定を捨てても夢を追う」それは起業も同じであり、
その覚悟と努力が今の岩田剛典さんを形づくっているのです。
5.まとめ
岩田剛典さんの人生は、華やかな芸能活動の裏に、家族や家業との深い関わりがありました。
皆さんはどう思われたでしょうか?
名古屋の老舗靴メーカーの御曹司という背景を持ちながら、自らの意志で芸能界へ挑戦し、確固たる地位を築いた岩田剛典さん。
そのストーリーは、夢を追うすべての人に勇気を与えてくれるのではないでしょうか。
岩田剛典さんのこれまでのこと、そして今後のご活躍を応援したいと思います。
最後までお読み頂きありがとうございました。
コメント