劇作家・つかこうへい——そのお名前を知っておられたり、
つかこうへいの数々の代表作(『熱海殺人事件』『蒲田行進曲』)など知る方は多いと思いますが
つかこうへいさんのい頃の姿や、その演劇の成功に至るまでの背景を知る人は意外と少ないかもしれません。
実はつかこうへいさん、韓国の方で、「つかこうへい」は本名ではありません。
「つかこうへい」という名前を選んだ理由には、社会への静かな怒りと願いが込められていました。
慶應義塾大学を中退し、早稲田で旗揚げした劇団は、のちに風間杜夫、広末涼子、石原さとみ…といった数々のスターを輩出。
つかこうへいさんの人生は、華やかな成功の裏に、苛烈な演出現場と鋭い人間洞察があった。
本記事では、つかこうへいの若い頃の日々を、時系列でたどりながら、その人柄と影響力の核心に迫ります!
1.つかこうへい 若い頃 生い立ちから劇作家を志すまで
①生まれ~高校までは福岡で活動
つかこうへいさんの本名は金 峰雄(キム・ボンウン)
日本の演劇界に多大な影響を与えた演出家・劇作家です。
日本名は金原峰雄(かねはら・みつお)さんです。
生まれは1948年の4月24日で
旧福岡県嘉穂郡嘉穂町に在日韓国人2世としてうまれます。
上にお兄さん、下に弟、妹がいる、4人兄妹の次男。
福岡の嘉穂町で過ごし、高校は立山田高等学校を卒業。
高校時代は、新聞部長を務め、「反逆者」というタイトルで
社会問題を風刺するようなコラムを書いておられました。
そのころから、記事を書くことに興味があり、部長を務めるほどだったのですね!
そして、つかこうへいさん、お名前からてっきり純ジャパニースだとと思ってましたが、
実は、韓国の血筋の方だったのですね!
つかこうへいさんのご両親が福岡でラブホテルを経営しており、
つかさんも若い頃はその支配人を務めたりもしていたそうです。
ところでどうして、金原さんという本名のお名前から、
どのようにして「つかこうへい」さんになったのでしょうか?
本名が、塚原(つかはら)さんとかだったらまだわかりますが、何故「つか」なんでしょう?
大学時代の経験が関係しているようです。
次のところで詳しく見ていきますね。
➁大学(慶應)での活動が「つかこうへい」を作り出した
慶應義塾大学文学部に進学がきまったつかこうへいさんは、
福岡から上京して東京暮らしをはじめます。慶應の文学部の哲学科にはいり、さらに「三田詩人」という文芸サークルに所属します。
そこで初めて使ったペンネームが「つかこうへい」でした。
由来は「いつか公平に」──在日韓国人として生きる中で抱いた切実な願いを込めたものでした。
文学青年として詩や小説を書いていましたが、次第に「書いた言葉を生きた形で届けたい」と思うようになり、演劇の世界へと足を踏み入れます。
きっかけになったのは、在学中にしていたアルバイトの塾講師の仕事。
そこで思わぬ大きなチャンスをつかみます。
塾の生徒から「芝居の戯曲をかいてほしい」という依頼があり、それにこたえていくなかで、演劇、舞台の世界に関心が高まっていかれたのです。
次第に、劇団を作ることを決意するので、慶應大学は中退していきます。
つかこうへいさん、
帰化はせず日本で暮らしましたが、当時は在日韓国人への偏見や差別が根強く、就職や日常生活にもさまざまな壁がありました。
こうした経験が、後の作品テーマや人物造形に色濃く影響していきます。
2.つかこうへい 若い頃 慶應中退して早稲田で劇団つくり
慶應で文学を突き詰めていかれるのかと思いきや、劇作家という、さらに熱量の高い思いがこみあげてきた、つかこうへいさん。
慶應をやめて、演劇に本腰をいれていくことになりますが
おおきなきっかけとなったのが早稲田大学の劇団サークル「暫く(しばらく)」です。
「劇団しばらく」は向島三四郎・知念正文)にて、当時早稲田の大学で、
後に俳優になる平田満、三浦洋一に出逢います。
慶應から早稲田に行ったのは、おそらく演劇を極めるために、
早稲田での方が、劇団の環境が整っていたからですね。
若い頃のつかはとにかく負けず嫌いで、稽古場では役者に何十回も同じ台詞を繰り返させることも珍しくありませんでした。
役者を泣かせるほど厳しい一方、「舞台を必ず成功させる」圧倒的な手腕で、多くの役者に慕われました。
さて、つかさんは2010年に62歳で肺がんでお亡くなりになります。
ただ、なくなられて10年以上たっても、つかこうへいさんの作品は、
生き続けています。
つかこうへいの代表作については、こちらに詳しく書いています。

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3. つかこうへい 若い頃に育てた俳優たち
つかこうへいさんの舞台に参加し、大きく飛躍した俳優は数多くいます。
これまでに語り切れていない方については、以下にまとめていきます。
代表的な名前としては、風間杜夫さん、平田満さん、根岸季衣さんなどが挙げられるでしょう。
風間杜夫さんは、劇団の傾向場でつかこうへいさんに、「お前の芝居には垢がついている」
と言われたことがきっかけで、つかこうへいさんの演出の教えにはまっていきます。
他に内田有紀さん。
内田有紀さんも歌手活動を休止して、舞台励んでいる際「なぜ肌を黒いのだ、照明があたらないだろう!」
とつかこうへいさんに、日焼けしていることを咎められたりもしたそうです。
どの俳優さんも、そのようなことを乗り越えての今の輝きがあるのです。
確かに内田有紀さんも、その美しさから、誰もが羨むような役柄が多かったですが、
「最後から二番目の恋」あたりから、精神疾患のある女性をとても上手に、味のある演技でなさっています。
つかこうへいさんのおかげといっても過言ではないでしょう。
他に、石田ひかりさん、石原さとみさん、広末涼子さん、小西真奈美さん、黒谷友香さん、
石原良純さん、生駒直子さん、稲垣吾郎さん、酒井敏也さん、草彅さん。
気になる方は調べてみてくださいね。
また、つか作品をきっかけに演劇の道へ進んだ若手俳優も多く
2026年の再演に向けて、再び注目が集まっています。つかこうへいが残した「人を育てる力」は、今でも脈々と息づいているんですね!
5.つかこうへい 若い頃の私生活にも注目?夫として父として
①つかこうへい 1度目の結婚の相手は?
つかこうへいさんは、私生活では1980年の3月の32歳の頃、最初の結婚をされます。
相手は当時新人女優の熊谷真美(くまたに・まに)さん。
熊谷真美さんは1978年、つかこうへいさん構成・演出のパルコ製作のロックオペラ「サロメ」のオーディションを受けて見事合格し、芸能界入りをしていたころでした。
そこで、熊谷真美さんは、つかこうへいさんに恋をし、猛烈アタックして交際に至ったのがきっかけでした。
そして1979年7月、つかこうへいさんのお父さんが危篤状態になり、つかさんと熊谷さんはお父さんに会いに福岡の病院に駆け付けます。
その時、つかさんは意識がないお父さんに対して、「オレの嫁さんになる人だ」と熊谷さんを紹介します。
これがプロポーズになって1980年のご結婚です。
つかこうへいさんは、私生活でも熱い様子だと私思います。
また、熊谷真美さんは当時20歳、ということで、12歳差のカップルだったのですね。
まだ何もかもが新しい20歳の熊谷さんにとって、劇作かとしての実力と努力を安定されてきたつかおうへいさんは、男性としても魅力的に感じることは、ごく自然だったのかもしれません。
しかし驚かしいことに、二人はわずか1年半で、結婚生活を終え、離婚します。
熊谷真美さんは2023年のインタビューで、当時の離婚した原因について、このように語っています。
「些細な喧嘩が原因で、洗濯ものを地べたに置いて怒られたのがいやだったのです。」(スポニチ)
1970年から1980年にかけては、「つかブーム」と言われるくらいに、つかこうへいさんの作品への人気や、
お仕事が舞い込んでくる一番忙しい時期だったと言えます。
つかさんお忙しすぎて、おうちで、ゆっくりしたり、おおらかでいられる余裕は、
あまりなかったのかもしれませんね。
離婚後、「彼女とは友達としてもあまりうまくやっていく気はない」などと、つかこうへいさんが、インタビューに応じていたそうです。
つかこうへいさん、若い頃の私生活では、熱くなりやすく、冷めやすいタイプだったかもしれませんね。
➁つかこうへい 2度目の結婚で愛娘を授かる
つかこうへいさんは1982年に熊谷真美さんと離婚しました。
しかし後も、つかこうへいさんの熱量はさめていません。
翌年の1983年に女優の生駒直子(いこま・なおこ)さんと再婚しています。
生駒直子さんは元つかこうへい劇団の女優だった方で、つかこうへいさんの14歳年下。
つかこうへいさんは帰化しておらず、韓国籍でした。そのため、2人は国際結婚されたというわけです。
現在であれば、国際結婚なら、夫婦別姓は選べます。
しかし1983年当時はどうでしょうか?違ったのですね、選ぶことはできませんでした。
ウィキペディアに、つかこうへいさんは「家族の将来を考え夫婦別姓で結婚」と残っているのはそのためだと思われます。
また、当時は国際結婚で日本人の母親から生まれた子供は、日本国籍を取得することが出来なかった、
このような事情から、もしかしたら、つかこうへいさんと生駒直子さんは、きちんと入籍したわけではなく、内縁状態だった可能性があると思われます。
しかし、内縁状態でも離婚のようなことはなく、つかこうへいさんが亡くなるまで添い遂げています。
生駒さんとの間に、愛娘・愛原実花(あいはら みか)さんを授かります。
愛原は誕生時から母方の日本国籍を持ち、のちに宝塚歌劇団雪組トップ娘役として活躍。
退団後は女優・愛原実花として、活躍しています。
舞台上では鬼のような演出家だったつかも、父としては優しい眼差しで娘を見守り、ときに舞台人としての厳しい助言も惜しまなかったといいます。
6.つかこうへいの若い頃 まとめ:若き日の熱量は今も生き続ける
以上、今回は、つかこうへいさんの若い頃について書いてきましたが、
そのいきざまには、熱量の高さを感じました。
皆さんはどう思われたでしょうか?
つかこうへいが若い頃に築いた演劇手法や、役者を育てる独自の指導法は2026年の再演ブームでも再び注目されています。
また、公私ともに情熱的なつかこうへいの作る舞台を経験した俳優たちは、
今も第一線で活躍し、その影響は世代を超えて受け継がれています。
つかこうへい、在日韓国人としてのルーツ、言葉と演劇への情熱、そして人を育てる力──。
つかこうへいの若き日の物語は、今なお色あせることなく輝き続けています。
つかこうへいさん 若い頃まとめ
1985年に愛娘 愛原実花がうまれ、温かい家庭を作っていく。
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