澤柳政太郎(さわやなぎまさたろう)
このお名前をどこかで耳にしたことがありますか?
澤柳政太郎は、日本の近代教育に欠かせない人物。
「知らないのは恥ではない、知ろうとしないのが恥だ」
「随所髄所楽しまざるなし」
これらは、澤柳政太郎の名言。
澤柳政太郎は日本の明治・大正時代を生きた教育者ですから
また自由と個性を重んじる教育をいち早く提唱したパイオニアでもありますから
この言葉にどんな意味が込められているのか?
ちょっと気になりますね。
この記事では、彼の残した名言、何をした人なのかの基本から、学校作りまで分かり易くご紹介します。
「人を育てること」や「人を育つ環境」について改めて考えさせられる
きっかけになったらと思います。
どうぞ最後までお付き合いください。
1.澤柳政太郎の名言は?その背景にある教育的な思想とは?
澤柳政太郎さんの熱い思いは、言葉にも残されおり、代表的な言葉は次の2つです。
①「知らないのは恥ではない、知ろうとしないのが恥である」
澤柳政太郎 「知らないのは恥ではない、知ろうとしないのが恥である」この言葉があります。
日本では澤柳政太郎が言っていたことば、と残されています。
ことばの通り、世の中にはたくさんの現象があり、知らないこと自体は恥ずかしいことではないけど、
「知ららないままでいい」とあきらめてしまったりする、その姿勢ことが恥になる。ということ。
年齢や立場に関係なく、学び続けることの大切さを私たちに教えてくれます。
知らなければ、これから知っていけばいい。それが成長ということでしょう。
私個人としては、現代は情報過多、AIの発達などにおり、私たち人間がものごとを「知る」チャンスはとても増えていると思いますが、
ただ情報やAIの発達に助けられてはいるものの、AIに人間が負けない事も大切。
つまり、ただ情報を鵜呑みにしたり、流されないで、「なぜそうなの?」とか、
時に原理や、現象とされていることを疑いながら、知っていくこと、
それが大事だということを言われている気がするのです。
孔子は『論語』の中で「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり(知っていることは知っているとし、知らないことは知らないとする。それが知るということだ)」と述べています。
澤柳政太郎は、若い時に、尊敬するお坊さんから禅の教えてをうけており、
(プロフィールのところに詳しく書きましたので気になる方はご覧ください。)
この論語も、禅と同じ東洋思想からきています。
2つには共通点があるので、この言葉にも少し影響を受けたのかもしれませんね。
➁澤柳政太郎「随所随所楽しまざるなし」
澤柳政太郎はほかに、「随所随所楽しまざるなし」と好んで語っていたことがわかります。
いつでも、どんなときでも楽しみを見出すことはできる、の意味だととれますよね。
毎日新聞にも、文科省の記録として残っていることがつぎのように掲載されています。
澤柳が好んだことことばは、慣習や前例に縛られていてはいい教育はできないよ、と教えられる。(2020年 毎日新聞余禄より)
これは、1913年の記録からです。
澤柳政太郎が東北大学の総長だったとき、
日本で初めての女子の大学生の入学を受け入れた、という改革をしていった言葉だそうです。
慣習や前例に縛られていては何も楽しめないということ。
さらに個人的に思うのは、「楽しみ」とはいわゆる遊ぶとか趣味を楽しむことに限らず、
こうした制度改革を行うときも同様であるという意味に思えます。
「大事な仕事をしているときも、その楽しむマインドは忘れてはならんぞ!」と、
澤柳さんが促してくれているような気がしますね。
2.澤柳政太郎って何をした人?プロフィールと時代背景
澤柳政太郎さんは、そもそも何をした人なのか、おさらいも兼ねてみていきます。
澤柳政太郎さんは1865年(慶応元年)4月、松本市生まれ、
1927年(昭和2年)の12月に、62歳で生涯を閉じます。
政太郎さんが生きた時代は、江戸から明治へと政治体制がかわりましたので
教育制度そのものも整備され始めたばかりでした。
そうした急速な近代化の中で、澤柳政太郎は教育界で大きな活躍をします。
①澤柳政太郎は何をしたのか?4つわかりやすく
澤柳政太郎さんの大きな特徴を、分かり易まとめるとつぎの4つになります。
東北帝国大学の総長のとき、日本初の女子大学生入学を受けいれた。(以前は帝国大学に女性の入学は許されていなかった)
澤柳政太郎さんは、成城小学校の創設者なのですね。
そしてただ「学校の先生」ではなく、制度そのものにも改革の風を吹き込んだ
教育者だったというわけですね。
女性の入学許可など、時代の枠に縛らない人だったのでしょう。
だからこそ改革、創設ができたのでしょうね。
➁澤柳政太郎のプロフィール時系列で簡単にわかりやすく
澤柳政太郎さんがが何をしてきたのか、時系列順で気になる方は、御覧になってください。
1884年 東京大学文学部哲学科に入学
1888年 大学を卒業し、文科省に勤務開始
1889年 雲照律師(うんしょうりっし)尊敬するべきお坊さんに出会い
「禅」の教えの中で、どんな小さな生き物でも命を大切にを習う
1891年 結婚~第一子生まれる
1892年 文科省やめる
1893年~1898年 京都、群馬、仙台、東京にて、校長を2年ずつ務める。
1898年 再び文科省で働き始める、文科省普通学務局長
1899年~各地で教員関係の検定委員や理事、校長を務める
1902年~1927年外国視察を続け、学会で発表、日本に記憶して講演会などを行い続けた
1917年私立成城小学校を創設
1922年 成城第二中学校創設
1925年 成城幼稚園を創設
1926年 成城高等学校を創設
1927年 外国視察の渡航先でかかった猩紅熱(しょうこうねつ)のため死去
(澤柳政太郎物語より まとめ)
澤柳政太郎さんは、東大出身で、文科省に入所され、当時でもかなりのエリートですね。
ただ、学校現場と、文科省を行ったり来たりしています。
個人的には、ただのお役人ではなく、現場で現実をみてきた、という所が共感を誘います。
日本と海外も行ったり来たりされていますね。
晩年に、澤柳さんご自身の小学校の設立をしていますから
死ぬまでにやりたい事に、「小学校を作りたい」という熱い思いがあったのでしょう・
教育はやはり、初等教育からが大切という観点に、私もエネルギーを感じます。
3.澤柳政太郎 成城小学校どんな学校?
最後に少しだけ、澤柳政太郎さんが熱い思いで創設した成城小学校についてご紹介。
①成城小学校設立の背景
澤柳政太郎は、数々の学校を立て直したことがよい評判になっていて
46歳頃、帝国大学の初代の総長になり、様々改革を続けていきましたが、
「どれもたいしたことなかった」という感覚だったという話た残っています。
やはり本当の人間作り、本当の教育ができるのは、小学校しかない!
小学校を作るまでは死ねない!といって、晩年の1917年(政太郎が52歳ごろ)、
現在の私立の成城小学校を創設し、校長に就任したのです。
➁成城小学校の希望理想
成城小学校。澤柳政太郎がつくった学校の希望理想はこのように掲げられています。
1.個性尊重の教育
2.自然と親しむ教育
3.心情の教育
4.科学的研究を基にする教育
(成城小学校hpより)
すばらしいです。
たしかに、立地としては、成城大学のキャンパスをぬけていく、
都内ではめずらしい大自然にかこまれております。自然と親しむ教育にはばっちりの場所です。
また、学校パンフレットを拝見すると、なんと小学校では、通信簿がない、と伺いました。
これは、代わりになるもので評価があるのかもしれませんが、
数字でみられるものだけで判断しないで、個性の尊重(他人と比べない)というところに重きを置いているという考えが受け継がれている、と受け取れます。
まとめ
今回は、澤柳政太郎が何をした人なのか?どんな名言があるのかを中心にご紹介してきました。
皆さんはどう思われたのでしょうか?
知らない、わからない、と言える勇気も大事。
でももっと知りたいと思うことはとても大切。
それこそが学びの原点になる。
そのようなことを澤柳さんが教えてくれている気がします。
大人になっても、どんなときでも「知ろうとする姿勢」
大切にできるといいですよね。
お読みいただきありがとうございました!
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