「何度生まれ変わっても、私たちは必ず君を我が子に選ぶ」
これは、小泉信三は、戦時中に最愛の息子である小泉信吉(こいずみ・しんきち)を戦地へ送り出したときのこと。
そのときに残した手紙には、一人の父親としての深い愛情と誇りが込められています。
「何度生まれ変わっても、私たちは必ず君を我が子に選ぶ」
そう綴られた言葉は、教育者としての教え以上に、子を想う親の心そのものです。
子どもを育てる中で、「どんな声をかけてあげればよいだろう」と迷うことは少なくありません。
小泉の手紙からは、子どもに自信と安心を与える言葉の力を学ぶことができます。
1.小泉信三 息子へのことば「何度生まれ変わっても、私たちは必ず君を我が子に選ぶ」
戦時中に息子へ送った、父からの手紙
戦時中、小泉信三は一人の父として、出征する息子・小泉信吉(こいずみ・しんきち)に手紙を送りました。
そこには、教育者や塾長としての姿よりも、家族を思う温かな人柄がにじみ出ています。
君を我が子とする事を何よりの誇りとしている。僕は、もしう案れ変わって妻を選べといわれたら、幾度でも君のお母様を選ぶ。
同様に、若し我が子択ぶことができるものなら、我々二人は君を必ず択ぶ。
もし、生まれ変わって我が子を選ぶということがあるなら、我々二人は君を再び選ぶ
この言葉には、息子への深い信頼と、親としての誇りがこめられています。
死と隣り合わせの時代にあっても、子どもに「生きてきたこと自体が尊い」と伝えようとする姿は、現代の親にとっても大きな示唆を与えます。
2.小泉信三 息子 小泉信吉や娘たちへのことばと思いが生まれるまで 伝記(Ⅲ)(1933年~1941年)
👉前回までの小泉信三の伝記のまとめや名言については、こちらに書いています。
◆「練習は不可能を可能にす」小泉信三の名言、伝記(Ⅰ)

◆読書論とは?小泉信三の名言「すぐに役立つものはすぐに役立たなくなる」、伝記(Ⅱ)

慶應義塾長になった小泉信三 (1933年~1947年)
1933(昭和3)年、小泉信三が45歳の頃、慶應義塾長に選ばれ、約13年間に亘ってその職を務めることになります。
13年って随分長いですよね、と私は思います。
1期は4年間であり、2期連続した8年経った頃、続投がのぞまれて、3期務めることになったのですが、戦時下で小泉が入院していた期間があり、そのとき1年間延長がきまったので13年という数字になっています。
1933年、このころの慶應義塾は、医学部を除く全ての学部が三田に集中していた関係で、
敷地が狭く感じられていました。
その状況を解決するために、慶應義塾大学の今の日吉キャンパスの開設や、
慶應義塾幼稚舎の広尾天現寺への移転、藤原工業大学の創設、なども実現していったのは、ちょうどこのころで、小泉信三が塾長を務めたころでした。
「善を行ふに勇なれ」で結ばれた「塾長訓示」も結ばれていきます。
👉「善を行うに勇なれ」についてはこちらの記事で詳しく書いています。

このころは、戦争中ということで、戦時色が強まる困難な時代でありながら、小泉信三は慶應義塾を牽引していきます。
息子を失っても、使命を果たした小泉信三
やがて小泉信三の長男、信吉(しんきち)は戦場で命を落とします。
愛する息子を失った悲しみは計り知れない思いで、胸がいっぱいです。
そして、信吉の死後から、小泉信三の教え子との「木曜会」の勉強会はしばらく休会となり
そのことで、どれだけ小泉信三が気を落としていたかが胸に響きますよね。
しかし一方で小泉信三は、その悲嘆に沈み続けることなく、自らの使命を果たすべく歩み続けていきました。
小泉は慶應義塾の塾長を務めつづけて、戦時下で動揺する塾生たちを守り導く役割を担っていくことだけではありません。
自分の残された大事な家族を守る、ということもです。
その任務を全うするなかで、戦争の影響で、顔にやけどをおってしまいます。
また、自宅が焼けてしまい、小泉信三ご自身も逃げ遅れて焼け死んでしまうのではないか、と恐怖の中、「残された家族を守るのが私の役目」と言い聞かせて、自宅の1階部分で助けを求める妻と娘をひっぱりだし、なんと救出するのです。
この出来事から、やけど以外のお怪我もあり、病院に入院してしばらく病棟で過ごします。
このことで、慶應義塾の塾長の期間が1年間延長するのです
このようにして、息子を失ってなお「教育者としての責任」をまっとうし続けた姿勢は、多くの人々が強い感銘をうけるのです。
塾長退任後も福澤諭吉の精神を受け継ぎ、生き抜いた人生
小泉信三は生涯を通じて、福澤諭吉を深く尊敬していたことが、慶應義塾を退いた後も、よくわかります。
終戦を迎え、昭和22年、慶應義塾塾長を退きます。
その後様々な公職のオファーが届きますが、全て依頼を断るのです。
東京御太子教育常時参与の職務だけは例外で、引き受けることにしました。
皇太子(後の天皇陛下)の教育係として、次の時代を担う若者に希望を託した、というわけですね。
このころも、福澤諭吉の本である「帝室論」を読んで勉強に励みました。
教育理念「独立自尊」に強く共鳴し、自らの生き方や言葉の拠り所としてきました。
自分自身が悲しみに直面しても、「人は学び続けることで立ち直り、社会に尽くせる」という信念を失わなかったのも、福澤諭吉の精神に支えられていたからでしょう。
引退後も著述や講演を続け、最後まで「学ぶことの意味」を世に問いかけ続けました。
まとめ:子どもの才能を伸ばす“愛”と“責任”
三部作の最後に、小泉信三の人生から学べることをまとめてみましょう。
子どもに「あなたでよかった」と伝える愛情
家族を守り、若者を導く責任感
師を尊敬し、学び続ける謙虚さ
これらは時代を超えて、現代の親や教育者に通じるメッセージです。
小泉信三が遺した言葉や姿勢は、「子どもの才能を伸ばす」というテーマを超えて、人としてどう生きるかを教えてくれるものだと言えるでしょう。
日々の中で見せてくれる子どもの小さな努力や挑戦は、親にとって何よりの喜びです。
その姿を「すごいね」と受け止めることが、子どもに自信を与えます。
教育者としての視点からも、このような積み重ねは、将来の大きな学びの力へと育っていくと感じています。
親としての温かなまなざしと、教育者としての確かな視点、その両方を大切にしていきたいと思います。
👉小泉信三のほかの名言や、生い立ちや、福澤諭吉との出会い、慶應の学生時代などについては、こちらの記事で詳しく書いています。
小泉


コメント