読書論とは?小泉信三の名言「すぐに役立つことはすぐに役立たなくなる」と伝記(Ⅱ)

「すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる」。


この言葉は、慶應義塾大学で長く教壇に立った小泉信三が晩年に記した『読書論』の一節。


一見するとシンプルですが、学びや教育に深く携わった彼だからこそ辿りついた、普遍的な真理が込められています。

前回の記事では、小泉信三の生い立ちに触れながら、努力出来る人を育てるにはどんな視点が大事なのか、「練習は不可能を可能にす」のことばも含めて紹介してきました。

しかし、人は努力だけでは成長するのではなく、そこには必ず「人との関わり」があります。

今回は名言を軸に、彼が何を大切にしていたのか、そして現代の子育てや学びにどのようにつながるのかを見ていきたいと思います。

小泉信三が慶應義塾で学んだことも、単なる学問ではなく、仲間との自由な議論や師との交流から得られる「人を信じ、人に仕える」という姿勢でした。


これらの経験が、のちに彼を教育者として導き、多くの名言を生み出していくわけです。

小泉信三が歩んだ人生からは、「知識をどう生かすか」「人をどう育てるか」という問いが浮かび上がってきます。

今回も引き続き、子育てのヒントになる視点から、小泉信三の慶應時代や、家族との関わりを通して、「子どもを伸ばす親・教育者の姿勢」について、さらに掘り下げてみたいと思います。

小泉信三の前回までの伝記のあらすじや、名言についてはこちらで書いています。

「練習は不可能を可能にす」は小泉信三の名言 伝記もわかりやすく(Ⅰ)
毎日のように「これでよかったのかな」と立ち止まることがありますよね。私自身も、教員として学生をかかえていたり、また、3歳の子を育てていた頃に、「もっと優しく声をかけられたのでは?」「ちゃんと気持ちを受け止めてあげられたかな?」と後悔すること...

1.読書論から小泉信三の「すぐに役立つことはすぐに役立たなくなる」

小泉信三は、慶應義塾にはいって、大学を卒業したあと、教授になってからも

学生と共に学ぶ姿勢を生涯大切にしました。

その晩年に著した『読書論』の中で残したのが「すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる」という一節です。

昨今では、この言葉に感銘をうけた池上彰さんも、講演などでお話をしているので、

かなり有名な言葉になってきていますが、元々は、慶應義塾をささえてきた小泉信三氏のことばなのですね。

そうか、池上彰さんも慶應の経済学部出身だしな

小泉信三が晩年に著した『読書論』の中で、こんな一文を残しています。

「すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる」

一見すると逆説的に聞こえる言葉ですが、長年にわたり慶應義塾大学で学生と共に学び続けた小泉の経験から生まれたものです。

実は、この言葉の大切さを強調するエピソードを、ジャーナリストの池上彰さんも語っています。

池上さんがアメリカの大学を視察した際、学生に「経済学は学ぶけれど、経営学は学ばない」と聞いて驚いたそうです。

その理由は、経済学は社会を理解するための教養であり長く役立つが、経営学は実用的すぎて「すぐに役立つ」ため、大学で学ぶものではないと考えられていたからです。

もっと学びたいと思えば大学院に行って学べばよい、という考えです。

池上さんは「大学はすぐに役立つことを教える場ではなく、人生を通じて役立つ知恵を身につける場である」と紹介しています。

まさにこれは、小泉が説いた「すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる」という考えを現代的に裏づけるものだと言えるでしょう。

私たちが日々の学びや子育てで心に留めたいのは、

「目先の便利さ」にこだわるよりも、長く生きる力を育てること。

これこそが小泉が大学教授として学生に伝え続けた姿勢であり、時代を超えて今なお響くメッセージなのです。

そんな小泉信三氏のことばが生まれるまでの、慶應での学生時代はどんなだったのでしょうか?

伝記をわかりやすくご紹介していきます!

 

2.読書論での小泉信三の名言が生まれるまでの背景 伝記(Ⅱ)をわかりやすく!

さて、小泉信三は、慶應普通部にはいり、テニス三昧な日々を過ごしていったわけです。

「練習は不可能を可能にす」という言葉への思いとして、小泉信三自身も、

運動家としての出世は早いほうだったわけですが、その代わりに、練習は誓えようにもないものだった、(テニスと私)

と記しているほどです。

しかし、その運動家の一面は、普通部卒業後の大学に進むと、勉強家へまっしぐらに変わっていきます。

勉強家になってからも、学生同士の人との交流、師ととの交流、関わりをとても大事にしてた生き方でした、

小泉信三 良く学び、よく遊ぶ塾生時代

1907(明治40)年、19歳の小泉信三は、慶應大学に進むと、東京高商(★現在の~)から来たばかりの福田徳三の講義にひきつけられます。

福田徳三は、経済史が専門の経済学者でした。

福田の魅力について小泉信三は、次のように語っています。

「博士の学問に対する熱情に感染した」(「生誕120年記念 小泉信三展」)

このようにして、情熱が勉強にうつっていったのですね。

「私は、在塾中実に多くの良師を得たと思っているが、私に学問に対する興味を喚起し、

学校教師になりたいという志を起こさしめたものは、第一は福田博士であった」

(『大学と私』小泉信三)

ほかに、銀行論の専門の堀江帰一博士や東洋史専門の田中博士の影響も受けています。

経済に興味があったのですね。

小泉信三は、6歳という幼いころにお父さんをなくされていますが

その父、小泉信吉(こいずみ・のぶきち)は、慶應義塾の塾長以外に、横浜生金銀行創立など、塾外の活躍も長かったので、その背中をみてきた影響もあるのかもしれません。

いずれにしても、このようにして小泉信三は、勉学への興味が深くなり、

テニスへの熱が急速に冷めていった、というわけですね。

慶應義塾大学卒業後、教員時代の人との関わり、ヨーロッパ留学

大学を卒業すると、そのまま理財課(現在の経済学部)の教員となります。

小泉信三は、師の一人である堀江帰一から激励されたのです。

「学者になるのは相撲取りになるようなものだ。全ては実力で決まる。そのつもりでやり給え」(「私の青春」小泉信三)

恩師との関わりをここでも大切にしつつ、努力を続けるのですね。

師だけではなく、友人とのかかわりも大事に続けていたのです。

小学校(御田小学校)時代からの友人であり作家となった水上瀧太郎

(阿部章蔵)と親交を深めて、文学・演劇にも興味をしめしています。

さらに、水上の紹介で妹とご結婚されてますしね。

また、1912年(大正元年)から、慶應義塾の派遣で、英国とドイツに留学し、経済学や社会情勢の勉強を深めます。

留学先からも、絵葉書を姉やその家族、老い名それぞれに送ったりしていたと、

小泉信三は終生筆まめと言われるぐらい、文字で表現することを一種の趣味にしていたといえるでしょう。

帰国後は、経済学の専門家として、教授になります。

帰国後の教授時代「常に学生とともに在る」

1916年(大正5年)、留学より記憶した小泉は28歳になった時、

慶應義塾大学の理財課の教授となって、以後「経済原論」「経済学史」を専門に講義をして教鞭をとったのです。

塾長になるまでの先の17年間は、学者として授業と著述に専念したのです。

著作もたくさん出します。

しかし、授業を受けた学生の中には、小泉信三のマルクス主義批判と反対の立場にある学生もいたのですが、小泉は、その学生たちの事も尊重したのです。

また学生との時間を大切にして、好む人だったのです。

例えば、ゼミナールの学生たちと、一週間の授業が終わる木曜日には、自宅で夜遅くまで語り合っていたし、

この「木曜日会」は次第にゼミの学生だけでなく卒業した人たちや、聞き伝えた見知らぬ塾生へと広がり、毎回数十人が集まった(生誕120周年記念 小泉信三展)

常に学生の個性を尊重し、その成長を喜んだという感じですね。

小泉信三が、初めて慶應普通部にきたとき、先輩後輩の上限関係がなく、

お互いが敬意を示しながらも自由に討論できる場所だったことの魅力を感じだ、とありました。

このようにご自身が肌で感じどったものを、教授という立場になってからも受けついて

実践していた、ということなのでしょうね。

小泉信三の結婚は?子どもはいる?

1916(大正5)年は、小泉信三が教授になったということだけでなく、

小泉信三が結婚した年でもありました。小泉信三が29歳を迎えた後の、暮れの12月頃でした。

相手は、阿部泰蔵(あべ・たいぞう)の3女のとみでした。

阿部泰蔵は、福澤諭吉の門下生であった人物であり、

慶應の教授になった後は、明治生命保険会社を創設し、社長に。

小泉信三の父親の友人でもありましたし、

息子たち(とみのお兄さんたち)の一人は、水上瀧太郎という、小泉信三の小学校時代からの大親友。

水上瀧太郎の紹介で、「妹のとみには、は小泉君がいいんじゃないかな」という一押しで、猛烈な推薦をうけて、結婚に至ったわけ打でした。

小泉信三は留学先のパリで、こっそりかわいい指輪を二つ買っていたそうですよ。

さて、そんな大事な人からも祝福されて結婚生活が始ったわけで

1918(明治5)年、1月17日、長男が生まれます。(小泉信三が30歳になったころ)。

長男の名前は小泉信吉。

どこかで見た事があるお名前だけど?

そうです。小泉信三のお父さんと信吉(のぶきち)同じ字です。

でも実は同じ漢字ですが読み方が違います。

小泉信三は、息子には信吉(しんきち)と名付けました。

信吉(しんきち)は、生まれつき肺が悪くて、療養生活が必要でしたが、

2歳になるころには全快し、いずれ慶應義塾大学の経済学部を卒業します。

また、長女二女にも恵まれます。

しかしやがて戦争がはじまると、長男の信吉(しんきち)を陸軍の兵士にとられてしまい、戦争でなくしてしまうのです。

戦争がちょうどはじまったころ、小泉信三は塾長になり、様々な困難を乗り越えていくことになります。

まとめ

小泉信三の塾長時代から晩年については、次回「小泉信三名言3」に続います。

 

3.読書論から小泉信三の名言 まとめ 時代を超えて今をいきるヒントになる

こうした学生時代の経験、恩師との出会い、留学、学生との交流、そして家庭人としての喜びと悲しみ。

皆さんはどう感じられたでしょうか?

そのすべてが、小泉信三の「教育とは人を伸ばす営みである」という信念と、のちに語られる数々の名言を生み出す土壌となりました。

「信三が伝えた“教育の核心”とも言える視点を、最後に。「小泉信三の子どもを伸ばす名言3」でご紹介します。

👉小泉信三生い立ちから慶應普通部までの伝記のまとめと、スポーツを通じてうまれた名言はこちらの記事で書いています。

「練習は不可能を可能にす」は小泉信三の名言 伝記もわかりやすく(Ⅰ)
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👉小泉信三のほかの名言については、こちらの記事で書いています。

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