慶應幼稚舎とは、正式名は、慶應義塾幼稚舎。
渋谷区恵比寿にあります。
ただ、名前が「幼稚舎」となっているため、幼稚園ではないか?と誤解されることも少なくありませんね。
しかし、慶應には、系列の幼稚園はなく
小学校が最初の教育機関ですので、こちらは小学校になります。
そうなんです。
慶應義塾幼稚舎(以下慶應幼稚舎)は、慶應義塾の創始者福澤諭吉の教育理念を受けついだ
日本を代表する私立小学校なのです。
なので、何歳から入れるのか?と言えば、小学校に入れる年齢、つまり6歳からです。
幼稚園じゃないのに、なぜ幼稚舎というのでしょうか、
そして、なぜ小学校と言わないのでしょうか?
その理由について、大事な歴史的な背景も確認し、深堀していきます。
慶應にはもう一つ初等部と呼ばれる学校もあります。
そちらとの違いにもふれながら、お伝えしていきます!
最後までお付き合いいただけたらと思います。
1.慶應幼稚舎は、なぜ慶應小学校、初等部と言わない?
慶應幼稚舎は、幼稚園ではない。
でも幼稚舎という名前は、一般的な小学校の呼称「~初等部」「~小学校」と異なる
なので、幼稚園ではないか、と思ってしまいますね。
ただ、どうして幼稚舎が、慶應初等部、慶應小学校とよばれないままなのか
それは歴史的な背景があるといえます。
簡単に言えば、今の幼稚舎の設立当時1874(明治7)年当時のことになりますが
1874年には、現代のように、~小学校、~初等科という言いかたはなかったからです。
そして、今もなお当時の名前を引き継いでいるからです
それだけ伝統を重んじる学校ということですね。
さて、小学校と言わない理由はわかりましたが、
なぜ「幼稚舎」なのか。
つぎの部分でお伝えいたします。
2.慶應幼稚舎は、なぜ「小学校」と言わず「幼稚舎」なのか
理由は2つに分けが法が分かり易いです。
一つ目は、
①慶應幼稚舎、なぜ幼稚舎(理由の1つ目)
慶應義塾の幼稚部(12歳以下の子のあつまる塾)としてはじいまったからです。
簡単にまとめると、
慶應義塾に通う他の学生(今の大学生や大人たち年齢)達が学ぶ塾が既にありました。
福澤諭吉はすでに慶應義塾(今でいう慶應義塾大学)を1858年に設立していたからです。
今の幼稚舎ができるのは、そのもっと後になるのですが、
その慶應義塾と区別するための、学校の呼び名にするためだった、と言えるでしょう。
現代において、年齢が違えば、教育の内容が違うべきであるのは、ある意味は当たり前ですが、
学ぶ内容がちがう、場所(学校)もちがう、呼び名も違う方がいい、という考えです。
➁慶應幼稚舎、なぜ幼稚部ではなく幼稚舎(理由の二つ目)
ではなぜ幼稚部、とよばずに幼稚舎にしたか?
これが二つ目ですが
もう少し詳しい話として、1874年に遡りますが。
当時、今でいう寄宿舎制度をとっていたため、その寄宿舎の「舎」をとることに後々なるのです。
ただ、1874年の時点ではすぐに幼稚舎と呼ばれるわけではありません。
それはもう少し後になります。
1874年当時、今の幼稚舎が出来る前の歴史的なことです。
1874年、慶應義塾の創立者 福沢諭吉は39歳。
福澤はすでに慶應義塾(今でいう慶應義塾大学)を1858年に設立していた。
慶應にはもう全国から大人だけでなく、子ども入塾希望者も現れていたのです。
入塾を希望して、はいったひとを「塾生」と呼んでいました。
当時寄宿舎制度をとっていました。
塾生のうち、子供むけのためにも、「童子寮(どうじりょう)」とよばれる寄宿舎があり
そこで12歳から16歳ごろにあたる子ども(多くは少年たち)をあずかっていたのです。
また、「学問のすゝめ 初編」が出版された年には、その内容は小学生にも分かる内容になっていたので、内容に関心をもつひとがおおくなり、
童子寮(寄宿舎)の人たちよりも若い年齢のひとたちも入塾を希望するようになりました。
12歳以下の若い年代の子たちがどんどん増えてきて
福澤諭吉も、ちょうど12歳以下のもっと小さな子たちへの教育も必要だと考えるようになっていましたので
ただ、13歳より幼い子どもたちと、それより年上の童子寮の学生たちを一緒に学ばせるのは、年代が違い、基本的な知識や言葉の量も違うので、難しいと感じていました。
そこで、慶應義塾のなかでも、さらに若く、幼い入塾者だけをあつめて学ばせる場所をつくった、これがいまの幼稚舎の始まりになっているわけです。
ただ、先のも書きましたが、すぐに幼稚舎と呼ばれるわけではありません。
最初の名前はなんだったのでしょうか?
つぎのところでご紹介いたします。
3.慶應幼稚舎はなぜ最初から「幼稚舎」と言わなかったのか
1874年に、12歳以下の児童があるまる慶應の塾(今の幼稚舎)ができたわけですが
当初からすぐに幼稚舎という名前ではありませんでした。
最初は何という名前だったのでしょうか?
「和田塾」という名前にスタートしました。
なぜ和田塾なのでしょうか?
初代校長のお名前をとらせていただき、慶應義塾の塾をとったのです。
初代校長の名前は、和田義郎(わだよしろう)さんでした。
和田義郎さんは、福澤諭吉の教え子の一人です。
話しは昔に遡りますが
1874年当時、福澤諭吉は当時39歳で、自分のこどもに4男と5女をもつ親でした。
自分自身もその年少者へ教育に深い意味を感じていたのも大きなおおきなきかっけともいえるでしょう。
その12歳以下のもっと小さな子たちへの教育を充実させたいという思いの強さから、
福澤諭吉は、信頼していた教え子に子供たちを託したそうです。
教え子のお名前が、その和田義郎(わだよしろう)さんです。
和田義郎は、子ども好きの優しい人柄の人物。
柔術(柔道のもとになった武術)の達人でもありました。
さらに、慶應義塾で学んだ後、慶應の英語の教員として、三田の構内に住んでいました。
その三田の自宅に子どもたちを預かり、和田の妻と共に教育を行うことになったのです。
これが「和田塾」(今の幼稚舎)のはじまり、というわけです。
4.慶應幼稚舎なぜ和田塾から幼稚舎になったか
1874年当時は、和田塾の入塾名簿には28人ぐらいの名前があったといいます。
年齢は、5歳から13歳ぐらいの人たちが学ぶようになっていったのです。
今と違い、4月にかぎらず、いつでも入塾できたので、人数が少しずつ増えていき
規模が大きくなった1880年ごろから、和田塾ではなく、「幼稚舎」と呼ばれるようになりました。
つまり、規模が拡大したタイミングで、名前の変更をかんがえた、
もともと、慶應義塾の幼稚部の役割だった、もともと寄宿舎制度をとっていたので、
その幼稚部の寄宿舎という事の由来で、幼稚舎になっています。
さて、幼稚舎は、学校の校長にあたるひとのことを、舎長とよびます。
つまり初代の幼稚舎長は和田塾をひらいてくれた和田義郎さんなのです。
歴史的な話になりますが、実際に、1874年ごろの明治初期の見た構内図には「ワカ山和田」大文字があります。
和田義郎が、和歌山県出身だったので、その呼び名になっています。
そこで、幼稚舎生を預かっていたということです。
この位置は、現在の慶應義塾図書館の休館の位置になるということです。
さて、幼稚舎はその後、三田校舎の老朽化に伴い、幼稚舎は1937年(明治12年)に、
現在の広尾に移動。
当時は広尾ヶ原とよばれていて、福沢諭吉の別邸のあった場所です。
これが現在の慶應幼稚舎の場所になっているというわけです。
このように、幼い子を、信頼できる教え子に預けて、学べるようにした、というわけです。
5.まとめ
以上、慶應幼稚舎なぜ小学校と言わないのかについて、歴史的事実からまとめてきました。
2. 福澤諭吉の創立した慶應義塾の幼稚部としてははじまった
3. 当時童子寮など寄宿舎制度をとっていて、その「舎」の文字をひきついだ
4・最初の校長は和田義郎で、「和田塾」からはじまり、のちに幼稚舎となった
5.和田義郎は福澤諭吉の信頼できる教え子で、初代校長がおこなったことは、今の教育方針にもつながっている。
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