「たけしのTVタックル」「日曜マイチョイス」などでTVではタレントとして活躍中な阿川佐和子(あがわ・さわこ)さん。
阿川佐和子さんといえば、タレント活動だけでなく、エッセイストとしても実力派やテレビで見せるユーモアあふれる語り口、そして人の心を自然にひらいてしまう「聞く力」。
阿川佐和子さんの言葉には、いつも温かさと洞察がにじんでいます。
その背景には、作家の父・阿川弘之さんをはじめとする家庭の影響が大きくありました。
この記事では、阿川佐和子さんがどのようにして「教養を体現する人」となったのかを、
生い立ちや家族の姿、そして彼女自身の言葉からたどっていきます。
子どもを持つ親としても「子どもの教養はどのように育まれるのか」を考えるヒントになるでしょう。
1. 阿川佐和子 父や母から受けた影響は? 厳格さととユーモアは時に仲良し?
阿川佐和子さんのご家庭は、ご両親と阿川佐和子さんと、阿川さん兄、弟さん2人の、
6人家族でした。
詳細は後述の家族構成のところに譲りますが、
阿川佐和子さんについて述べる上で、とりわけ外せないのはお父さまの阿川弘之(あがわ・ひろゆき)さんが、戦後を代表する小説家・評論家のおひとりであったこです。
厳しさとユーモアを併せ持った人物でした。
お家ではどちらかといえば、厳しさが印象づいているようです。
阿川佐和子さんのインタビューでよくそのように語られています。
厳しいおうちだったとしても、佐和子さんは、萎縮することなくご自身を表現していたり、温かい雰囲気でインタビューされたり、楽しいお話をしたりすごいですよね。
どうやったら阿川佐和子さんのような方が生まれ育つ家って、どんな感じなのでしょうか?
家族構成から確認して深堀していきます。
阿川佐和子の聞く力・話す力どうやって育まれたのか
阿川佐和子さんのような巧みな会話術というのはどのように生まれたのでしょうか?
あるインタビューで阿川佐和子さんは次のように語っておられます。
もう、小説家の家に生まれた悲劇から、というところでしょうかね。(毎日新聞)
阿川佐和子さんがおうちで遊ぶ時は、お父様は、作家というお仕事柄でおうちでお仕事をされている事に気を遣う事が多かったのですね。
いつも締切に追われながら書いているので、お家では、を見せることもあったのですよね。
小さな声で年の離れた弟さん達とお話したり、出来るだけ物音をたてないように遊んでいたとか。
ただ、それでも突然ふすまがあいて、「うすさい!」とお父様に怒鳴られることが多々あったのです。
「どうやら気配がうるさかったようです」(毎日新聞)
そんな調子ですから、いつもお父様は家のどこかで怒鳴っていらしたようです。
また別のある日は、夕飯迄かえってくるな、ということもあったそうです。
母と町中をぐるぐる歩き回っていて、行きついた先が映画館。上映中の映画は「家なき子」日常的にひどい目に遭ってきたけど、笑い話にしないと生きていけなかったのようね。だから笑い話にするのは長けいるかも。自分も救われるのね。(毎日新聞)
それで優しさの中に笑いやユーモアがあるから、阿川さんのお話はおもしろいし、
インタビューされる方も、楽しくお話しているというわけですね。
笑いは大事ですよね、私も思います。
お父様が作家というと、文学や歴史の話題が自然に交わされ、家の子どもたちは言葉や表現に触れる環境に育っていくイメージでしたが
もちろんそれもあったと思いますが
真剣さからある意味逃れる事への術としてユーモアが必要だったということで、生活の中でどんどん磨かれてきたのですね。
お父様のそういう態度を尊重しながら活きている、その阿川佐和子さんおお母さまの温かい支えも、阿川さんの人間性を形づくる大切な土台になったといわれます。
阿川佐和子のユーモアとはどのように磨かれてきたのか?母からの影響
さて、このようにしてできあがってきた笑顔も素敵でユーモアもある阿川佐和子さん。
ですがそんな阿川さんも、さすがに本気で「家をでてやる!」と思ったことがあったのです。
学生のときのようです。
父に怒鳴られて、「もう家をでてやる!」と泣いて泣いて友達に電話していたとき、
「電話をきって、私の話が終わるや否や、母は泣いている私にむかって「で、明日何食べる?」なんて聞いてくるもんだから、最終的には笑ってしまって…」(毎日が発見ネット)
このようにして、笑うことがお薬になって、深刻さから逃れられるということが癖、というか習慣化してきたということなのです。
このお母さまの対応、すごいですね~!温かいし、寛容です。
夫が思春期の娘に出ていけ!どらり散らす。
どうせいつもの事だろう、と穏やかに見ていられることはすごいと思います。
こんなとき、夫(阿川佐和子さんのお父さん)にむかって口出ししたり、
娘の阿川さんと一緒になって悪口言ったり、苛立って泣いてしまったりなんてことがあったら、今の阿川佐和子さんは出来上がっていないでしょうね。
お母さまの心の広さに感激です。
阿川佐和子は失恋もユーモアに語る!
阿川佐和子さんは、もともと20代のころから早く結婚がしたかった、
お嫁さんになるのが夢だった、とおっしゃいます。
若い時期からお見合いをしていて、その数は約30回にもなるほど!
学生の頃、失恋したこともユーモアになったと語っています。
大失恋をして、ショックで家に帰って涙が止まらなくなると思ったけど、玄関をあけると、父はいつものように怒鳴っているし、弟たちはぎゃぎゃ騒ぎっぱなし。母は私のそんな顔を見て、「あら元気ないわね。でもちょっと忙しいからこれ運んでくれない?」という調子で、泣いている暇もない感じでしたからね
なんとなくわかりますね、その感じ。笑うしかないと私も思います。
こんな大変なときに、そんなこと言ってくれるな、と一瞬思うかもしれませんが、
おうちに帰ってしんみりするというよりかは、
いつも日常が賑やかで、逆に自分の悩みが知佐那出来事に思えてきたのかもしれません。
そのようなご家庭の環境がまたユーモアを助長させていったのでしょう。
お母さまも明るい方で本当にすばらしいです。
”またずれの女”に笑う阿川佐和子
阿川佐和子さんは、中学高校という思春期を私立の女子高で過ごされたことも、
笑う事を大事にしていた影響の一つだと語っています。
中学高校と女子だけの世界で、みんな笑うことに全力をかけていたと思う(毎日が発見ネット)
男子がいない分、女子だけの空間というのは喧嘩しないで、逆に笑いのツボや共感しあえることが多いので、楽しいのですよね。
私も高校が女子だけでしたので、わかります。
阿川さんは何に具体的に笑ったのかを、このように語っていらっしゃいます。
「国語の授業で『伊豆の踊子』を読んでいたときのこと、お勉強をしっかりしている真面目タイプのお何あの子が、「また連れの女を…」というところを「マタズレの女」と読み違えたところで、みんな爆笑!」
阿川さんが通った女子高については後述していますが、東洋英和学院中学高等学校です。
東洋英和のお嬢さんたち、「またずれ」がツボにはまったんですね!
さて、このように笑いを大切にしてきたことが常に記憶にあたらしい阿川さん。
勿論、悲しい時は、気が済むまで泣いたり、立ち上がるのが辛い時は床がずれるまで寝ていていいのかもしれません。
ただ、そんなことをした上で「あ!笑っていいんだ」と思えればそれで大丈夫。
阿川佐和子さんだからこそ、そんな風に笑いを大切にできているのですね。
「家庭の空気が、そのまま子どもの教養を育てる」——阿川さんの生き方は、その好例といえるでしょう.
次の章では、阿川さんの生い立ちは、家族構成をもう少し詳しくみていきましょう!
2.阿川佐和子 家族構成、生い立ちや学歴も紹介!
阿川佐和子さんは、エッセイスト、キャスター、そして作家として幅広く活躍中。
中でも2012年にベストセラーとなった『聞く力』は、他者との関わりの中で大切な姿勢をシンプルに示し、多くの読者に共感を呼びました。
彼女の言葉は、肩の力を抜きながらも核心を突く——そんな独特の魅力を持っています。
阿川佐和子の生い立ち
阿川佐和子さんは、1953年11月1日、東京都生まれ。
父は作家の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)。
佐和子さんは長女として生まれ、他にお兄さんと、年の離れた弟さんが二人いらしゃります。
佐和子さんの2歳~3歳くらいの幼少期は、父阿川弘之の出身である広島市の、伯母宅で暮らしました
森下洋子バレエ団の公演を両親が見に行くとき、バレリーナの森下洋子さんに花束を渡す役目で、とてもどきどきする、感性豊かだったのです。
そのあとは東京に引越て、小学校からずっと東京で過ごします。
父親はとにかく滅茶苦茶な人で周囲の人がひどい目に遭わされていたようで、怒って食卓をひっくり返すこともありました。
そのため、結構内気な性格でした。
そんな作家である父親の影響で子供の頃からよく古典落語を聞いていたそうです。
阿川佐和子 家族構成は、華麗なる一族
阿川佐和子さんには、父親、母親のご両親のほか、
お兄さんがおひとり、弟さんが二人いらっしゃいます。
94歳とご立派です。東京帝国大学国文科卒業です。若い時に戦争を経験していて、その際は中国語ができたため、対中国の諜報作業を担当していた。戦後は焼け野原の広島で両親と暮らす。志賀直哉に支持。父は阿川甲一(あがわ・こういち)で実業家のやり手。
生きた時代は明治から令和。命日は9月24日で112歳と広島県の最高年齢でご立派。祖父は増田清で建築家で大阪を拠点に戦前の活躍をしていた。父は阿川弘之の父・阿川甲一の碁友達”だった加川百助。加川は”仏の百助さん”と呼ばれるほど寛容な人物で、光子さんの寛容さは父譲りと言われていた。
ご命日は11月12日で73歳で没。法学者、エッセイイストとして活躍。慶應義塾大学名誉教授、コロンビア特別区弁護士、同支社大学法学部客員教授。慶應は中退し米国ジョージタウンロースクール卒業で、ニューヨーク州、バージニア州、コロンビア特別区での弁護士資格を保有。特に日本ではアメリカ通で知られる。
(参考:ウィキペディア)
阿川佐和子の学歴
東京生まれで、幼少期の1年間は広島に住みますが、小学校からは東京に戻り新宿区の学校に通います。
中学から東洋英和ですが、こちらは1884年創立のキリスト敬のお嬢様学校で知られています。
偏差値は67で、中学受験の難関校の一つです。
阿川佐和子さんも、塾や家庭教師をつけて学びを続けて、合格を手にしました。
その後は、慶應義塾大学の文学部にはいります。
慶應を受験された理由について、阿川さんから語られたインタビューはありませんが、
1つ考えられるのは、阿川佐和子さんの兄の阿川尚之さんが、高校から慶應であったことでの、親しみやすさからの影響があるかもしれません。
ちなみに現在は偏差値65ほどです。
阿川さんの受験された当時はもう少し偏差値が高く
また、文学部を志す人材も多く、経済学部と並ぶくらいの看板学部でした。
西洋史学科を選んだ理由は、わかりませんが、
これも、アメリカに留学をしていたりという兄の海外志向の影響もあるのかもしれませ。ん。
3.阿川佐和子 家族との聞く力、現代へのメッセージ
阿川さんの代表作『聞く力』は、「人を理解するにはまず耳を傾けること」というシンプルな真理を教えてくれます。
インタビューで人々の心を引き出すその姿勢は、家庭や職場、教育現場にも通じるものです。
「相手の言葉を尊重することが、信頼を生む」——そのメッセージは、親子の対話にも大切なヒントとなるでしょう。
4.阿川佐和子 の家族構成|父母から学んだ教養と笑いの力!( まとめ)
今回は、阿川佐和子さんがなぜ教養を体現する人になられたのか、ご本人の努力以外で考えられることはなにか、について纏めてきました。
家族構成、家庭環境の影響は大きかったと思いますが、
皆さんはどう思われましたか?
阿川佐和子さんが、なぜこんな素敵な教養人になられたのか、軽くまとめると…
阿川佐和子さんの言葉や姿勢は、特別な知識や技術よりも「人との関わり方」そのものに教養が宿ることを教えてくれています。
家庭での会話や、子どもとの日々のやりとりの中にこそ、学びと豊かさを育む種があるのだと気づかされます。
日常を大切にしながら、相手の声に耳を澄ます——それが、阿川佐和子さんから学べる「生きる力を育む教養」の形かもしれません。
よんでくださりありがとうございました!
コメント