秀島史香さんは、声の魅力を武器にラジオDJとして確固たる地位を築いてきました。
近年はテレビ出演も増え、その落ち着いた語り口や知的な雰囲気が改めて注目されています。
そんな秀島さんの原点には、父親からかけられた
「好きなことを頑張ったら」という言葉があるといわれています。
幼少期を海外で過ごし、帰国子女として多様な価値観に触れてきた経験。
そして現在は一児の母として娘を育てる立場でもあります。
実家で受けた教育や家庭環境は、秀島史香さんのキャリア観、さらには娘への子育てにも影響しているのでしょうか。
この記事では、父親や若い頃のエピソードを軸に、プロフィールとともにその人物像を紐解いていきます。
秀島史香の父親・母親はどんな人?「好きなことを貫いたら」の教え
秀島史香さんの原点をたどるうえで欠かせないのが、ご両親の存在です。
「父は冗談が好きで、人を笑わせることを楽しむタイプ。レストランなどに行くと、必ず店員さんにひとこと話しかけて笑わせていました」
場の空気をやわらげるユーモアあるお父様ですね!
知らない人とも自然に会話を交わす社交性。
こうした父親の姿は、後に“声”で人とつながる仕事を選んだ秀島さんに、少なからず影響を与えているのかもしれません。
ラジオというメディアは、顔が見えない分、言葉の温度や間合いが重要になります。
秀島史香さんお、相手を緊張させず、安心させる話し方――その原型は、家庭の中にあった可能性があります。
また、お母さまについては、
「母はずっとしゃべっています。結婚前は学校の保健の先生でした」
と語っています。
保健室の先生という職業は、子どもたちの身体だけでなく、心にも寄り添う仕事です。
怪我や病気のときこそ、心細かったりするとき、保健の先生がたのしそうに喋りまくってくれると、なんか心配がきえたり、気持ちが明るくなったり、安心につながりますよね!
あとは、
ちょっと授業をさぼりたくって保健室にきてしまった生徒さんとか、
サボりじゃなくてもなんとなく足を運んでしまったとか、
話し相手が欲しい生徒さんの話を“聞く”、対話すること、
そして安心できる場をつくることが求められます。
家庭の中に、冗談で場を明るくする父と、人の話に寄り添う母がいた――。
このバランスの取れた環境は、秀島さんの落ち着いた語り口や、相手を包み込むようなトーンの土台になっていそうです!
さらに、秀島さんの父親は「好きなことを大切にしなさい」と背中を押してくれる存在でもあったといいます。
秀島さんはインタビューの中で、お父様について次のように語っています。
父親には「好きな事を頑張ったら?」とよく言われてきました
幼少期に海外生活を経験させ、多様な価値観に触れる機会を与えたことからも、
子どもの可能性を広げることを大切にする家庭だったことがうかがえます。
自由に挑戦させる。しかし、その選択を尊重する。
さて、その教育姿勢は、秀島史香さんがラジオという道を自ら選び、長く貫いてきた姿勢とも重なるような気がします。
なので、なるほど、そういう風に言ってあげると、子どもがどんどん伸びていくのでしょうね、秀島史香さんのように、と思いました。
やはり、わたしも一人の親としては「ああしなさい、こうしなさい」とどうしても「こうでなければならない、」という言うのは子どもの可能性を狭めてしまうだろうな、と思います。
あとは、常に日頃からの笑いです。
お父様のユーモアと、お母さまが話し続けるということでのダブルで、なんとなく笑ったり、笑顔がでてしまう秀島家だったのでしょうね!
自分の好きなことを丁寧に続ける生き方。
その原点には、笑いと会話があふれる実家の空気があったように思います。
秀島史香の若い頃は?父や母から旅に出された!?ラジオ番組との出会いはいつ?
秀島史香さんがラジオ番組と出会ったのは、小学6年生のとき。
父親の仕事の関係で、(お父様の海外赴任に帯同するかたちで)家族でアメリカ・ニューヨークへ移住。
それまでとはまったく異なる環境の中での新生活が始まります。
秀島さんは当時を振り返り、次のように語っています。
「父の仕事の関係で小学校6年生の時に家族でアメリカに引っ越しました。そこで初めて自分の部屋をもらい、当初、英語がまったくわからないので、英語のスピードに耳を慣らしたいと、自分の部屋でラジオを付けるようになったのです。それが私とラジオの初めての出会いでした。」(三田評論)
異国の地で、言葉がわからない。
学校では授業についていくのも必死。宿題も山のようにある。
特に夜、一人きりの部屋で心細さが押し寄せるとき、秀島さんはラジオをつけていたといいます。
この御話しには、孤独が怖かった、という正直な思いを感じるとともに、秀島さんの強さも感じます。
だって、ご家族はみんな一つ屋根の下なので、日本語で会話したら孤独ではなかったはずですよね、
でもそこは、今までよかったことの世界(ここでいう日本語が通じるの世界)に甘んじないで、
やはり、わからないものを分かるようにしたい、できないことをできるようなりたい、という秀島さんの向上心といいますか、変化する事にこだわる力を感じます。
秀島史香さんのようにそういう力の強い方が、才能を開花していくんですよね、きっと。
「明日も学校だ。英語もわからない。宿題もいっぱいで、まだ全然終わっていない」
そんなとき、ラジオをつけると、人の声ってこんなに温かいんだなと感じたんです。(三田評論)
そのときは、自分が将来ラジオDJになるとは夢にも思っていなかったそうです。
ただ、さみしい夜に、“顔は見えないけれど、確かにそこにいる誰かの声”。
それがどれほど心を支えてくれる存在だったか――。
当時好きだったのは、ニューヨークのラジオ局「WQCD」。
すぐ耳元で聴こえてくる声は、安心感や慰めを与えてくれる存在だったのですって!
確かに、当時はインターネットもSNSもなかった時代。
部屋で一人きりでも、「ラジオだけは別」だった。
生放送の声を通して、「今この瞬間、どこかで同じ時間を生きている人がいる」
そう感じられたことが、心の拠り所になっていたといいます。
この“孤独の中で感じた声の温かさ”こそが、秀島史香さんの原体験だったのかもしれません。
その後、父親の赴任期間が終わるタイミングで、ちょうど開校したばかりの
慶應義塾ニューヨーク学院に入学。
家族が日本へ帰国する中、秀島さんはニューヨークに残り、寮生活を選びました。
まだ若い娘を一人で異国に残す――。
ご両親の決断には、大きな覚悟があったことでしょう。
「かわいい子には旅をさせよ」という言葉がありますが、まさにそれを体現するような選択です。
慶應とはいえ、(日本の中では伝統もあるけど)ニューヨーク高は開校ばかりということで、これまでに生徒を受け入れた実績とか、伝統があったりすればなんとなく安心な面もありますが、開校したばありって、ちょっと心配もありますよね。
先生がどんな感じなのか、とかも含めて。
慶應ニューヨーク高は開校ばかりということで、わりと治安のいい場所にあるようですが、
とはいえ、やはり異国の地、アメリカであることには変わりないですからね。
お父様とお母さまの心配の度合いも並大抵のものではないと思いますが、
それを凌駕するぐらいに、娘にはやりたいことをやってほしい、という方針があったことが伺えます。
父からの「好きな事を頑張ってみたら」というのは、自分で選択したことをためしてみなさい、という事のようにも感じられます。
さらに、秀島さんは慶應のニューヨーク学院での毎日については次のように語っています。
-
各国から生徒が集まり
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多様な文化が交差し
-
人生で一番勉強した時期だった
と語っています。
この慶應ニューヨーク高は、ニューヨークで高校卒業資格を得ながら、日本の高校卒業資格も取得できる環境なんです。
その中で、語学力だけでなく、多様性を受け入れる視野を身につけていかれたのですね。
孤独を経験し、人の声に救われ、異文化の中で自分の立ち位置を探した少女時代。
その経験が、後に「声で人とつながる仕事」を選び、
丁寧に続けていく姿勢へとつながっているのではないでしょうか。
ラジオへのこだわりは、単なる職業選択ではなく、
“あの夜に感じた温かさ”を、今度は自分が誰かに届けたいという思いから生まれたものなのかもしれません。
若い頃からの考えがしっかりされていますね。
若い頃というと、秀島さんのご結婚相手なども気になりますね。
👉秀島史香さんの結婚相手や海外生活については、別記事で詳しくまとめています。

秀島史香 父母からの教えを娘にも継承?!
秀島史香さんは、2011年4月に長女をご出産されています。
母となった秀島さんは、その後、娘さんが5歳頃のタイミングで家族とともにベルギーへ移住(2017年に帰国されます)
現地では娘さんは、インターナショナル幼稚園に通い、1年ほどで多くの英単語を覚えるようになったそうです。
幼少期にニューヨークで“英語のシャワー”を浴びるようにラジオを聴き続けた秀島さん。
その原体験を思うと、娘さんにも自然と多言語環境を経験させたいという思いがあったのかもしれません。
言葉は、単なる道具ではなく、世界を広げる扉。
それを身をもって知っているからこそ、環境ごと与えるという選択をされたとも考えられます。
さらに印象的なのが、「一人で挑戦する経験」を大切にしている点です。
秀島さんの母方の実家は、岡山県備前長船。刀剣の里と呼ばれる町です。
家族で訪れていたその土地へ、小学3年生のとき、秀島さんは一人で行くことに挑戦したといいます。
新幹線の中では不安でいっぱい。
けれど、駅で祖母の顔を見た瞬間、涙があふれた――。
その体験は、「怖さ」と「乗り越えた安心感」の両方を刻む出来事だったことでしょう。
父親の海外赴任からのニューヨークでの寮生活、
そして一人で祖母のもとへ向かった幼少期。
振り返ると、秀島さんの人生には「小さな旅」が繰り返されています。
かわいい子には旅をさせよ。
その言葉を、両親は実践してきました。
そして今、秀島さん自身も、娘さんにさまざまな経験を与えているように見えます。
もちろん、公に語られている情報は多くありません。
しかし、
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多言語環境に身を置くこと
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異文化を自然に受け入れること
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少し背伸びする経験を重ねること
こうした姿勢は、ご両親から受け継いだ教育観と重なっているように感じられます。
孤独な夜にラジオの声に救われた少女が、今は誰かに声を届ける存在となり、
そして母として娘を送り出す立場になっている。
教育は、言葉で教えるものというよりも、背中で示すものなのかもしれません。
秀島史香さんの子育てには、
実家で受け取った「信じて送り出す」という姿勢が、静かに息づいているように思えます。
ご両親も秀島文香さんもすごいな~って思います。
4.秀島史香 まとめ
今回は秀島史香さんについて、
父親や母親の家庭教育が育てた秀島史香という人物についてまとめてきました。
・父親の言葉、母の存在
・帰国子女時代の経験
・若い頃の志向
・結婚、出産、そしてベルギー移住を含めた娘への教育観
皆さんはどう思われたでしょうか
人生の大きな転機を経験しながらも、秀島史香さんは変わらず“言葉”と向き合い続けています。
ラジオパーソナリティとして、音楽や物語を丁寧に届けてきた秀島さん。
その姿勢は、秀島史香さんの母としての在り方にも通じているのではないでしょうか。
娘さんに英語のシャワーを浴びせる環境を整えたことも、
自らの幼少期の体験のように「一人で挑戦する経験」を大切にしていることも、
すべては「世界を広く見てほしい」という願いから。
岡山・備前長船での原体験。
新幹線での不安と、駅で祖母の顔を見た瞬間にあふれた涙。
そうした記憶があるからこそ、
娘さんにも“心が動く体験”を重ねてほしいと願っているのかもしれません。
結婚相手であるご主人と支え合いながら、
家庭と仕事のどちらも大切にしてきた秀島史香さん。
これからも、母として、そして表現者として、
彼女の紡ぐ言葉に注目していきたいですね。
お読みいただきありがとうございました!
👉なお、秀島史香さんのご結婚相手や海外生活については、別記事で詳しくまとめています。

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