文スト福沢の異能力 「人上人不造」読み方は?

文豪たちが特殊な能力をもちながら、様々な事件や戦いに立ち向かう姿が描かれている文ストこと「文豪ストレイドックス」。

この文ストの中で、福沢諭吉は、武装探偵社の社長です。

彼の特殊能力、すなわち異能力を表すことばに、「人士人不造」が使われています。

これは何と読むのでしょうか?どんな意味があるのでしょうか?簡単にみていきましょう!

文スト 福沢諭吉の異能力「人上人不造」の読み方は?

文ストの福沢諭吉は、社長で、「人上人不造」という異能を持っています。

これは、「人の上に人を造らず」と読みます。

人の上、まではそのままです。

後半の「人不造」のところは、現代文にはない読み方ですね。

人を造らず、ということで、漢文のように下から読むということですね。

この「人の上に人を造らず」というのは、
1872年に、福澤諭吉が37歳のときに出版した「学問のすすめ初編」(本来は「学問のすゝめ 初編」です)の中の一遍の最初に書いている文章の一部なのです。

原文は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず…」というところです。

この部分だけが非常に有名で、この部分だけから解釈をしていくと、
人はみな平等である、という意味としてとらえている人も多いです。

(実もっと深い意味があり、それについては別の記事でたっぷり解説します。)

さて、文ストの福沢のこの「人の上に人を造らず」というのはどんな力(異能力)なのでしょうか?

これは、異能者の異能力を調整できる力です。

だとすれば、異能者たちの間で、その異能力が平等に発揮できるように調整をしているということでしょうか?
でも実際には、自分が社長をする武装探偵社の社員だけに、社員となった異能者だけに、その異能が発揮できるようにコントロールする力なのです。

どうして社員だけなのでしょうか?

人はみんな平等である、と原文をもし解釈したのなら、入社試験に合格した社員だけに、というところには、どうして?と疑問符がついてしまいます。

文スト 福沢社長が社員に異能をかける出来事のおさらい

社長が泉鏡花に異能をかけるシーンがありました。

Second シーズンの最後、24話「若し今日この荷物を降ろして善いのなら」でした。

福沢社長の能力は、探偵社員が自身の異能の制御を可能にするというものです。

鏡花は、はじめは、厳密には探偵社員ではなかったため、最初はこの異能がきいていませんでした。

(入社試験を突破していなかったのですが、ヨコハマの民を守るため、自分の命と引換えにしてでも白鯨を墜落させるという考えに至ったことが、試験合格の鍵となりましたね)

こうして試験合格後、無事に鏡花は異能力である「夜叉白雪」を制御することが可能になったのです。

一方、福沢社長の異能は、自分で制御しているものではない、つまり「この人に異能をかけよう」と思ってかけるタイプの異能ではないということです。

現に社長自身も、探偵社の社長となるまでは自身の異能に気づいていなかったと語られていました。

なので、よって、異能をかける、という表現はあまり適切ではないかもしれません。

異能を発揮するように促せる力があり、無意識に使いこなしている、そんなイメージでしょうか。

福沢社長が異能者、というよりは、福沢の社員たちが、異能を主体的に使えるようになっていく、そんな手助けをしている役目、ということのように、私は思っています。

文スト福沢の異能力「人上人不造」元ネタは福澤諭吉の言葉

なぜ社員の異能者だけに、その異能力を発揮できるように調整しているのか?

これは社長として情が厚く、親しい人を守りたい、親しい人には才能を発揮できるように主体的に動いてほしい、そういう福沢の熱い思いがあるからなのかもしれないです。

異能力「人上人不造」である「人の上に人を造らず」の元ネタとなっている、福澤諭吉の学問のすゝめの冒頭文の現代語訳を簡単にみてみましょう。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。(中略)しかしこの人間世界を見渡してみると、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人も、金持ちもいる。また社会的地位の高い人も、低い人もいる。こうした雲泥の差と呼ぶべき違いはどうしてできるのだろうか。社会的地位が高く重要であれば、自然とその家も富み、下ものもからみれば到底手の届かない存在に見える。しかし、そのもともとを見ていくと、ただその人に学問の力があるかないかによって、そうした違いができただけであり、天が生まれつき定めた違いではない。福沢諭吉 学問のすゝめ 現代語訳 齋藤孝 NHK出版

 

人はみな平等ではなく、賢い人も、おろかな人も、貧しい人も、お金持ちもいるということでよね。

その差は、その人に学問する力があるかないか、というところにあるわけですね。
だから学問するのがいい。

この学問をする力、とはただの勉強のことだけではなく、自ら学び、経験して、行動して、学んだものを発揮していく。受け身でなく主体的動いていくということを伝えてくているように思います。

「学問のすゝめ初編」が出版された年は1872年でした。明治になって間もない時期、
学びたいと思っても、学べない、学校にもいけない、本も誰もが読めるわけではなかった、そんな時代です。

それでもなお、自分で学んでいく力を持つことが大事、そんなことだと思います。

文ストの福沢は、「社員たちには主体的に動いてほしい」という社長として本来の気持ちをもっていて、それを異能力として発揮しているのかもしれません。

そんな風に私は思っています。皆様どう思いますか?

文スト 福沢社長 異能力のまとめ

ー「人上人不造」の読み方は「人の上に人をつくらず」
ー 探偵会社の社員になった人だけに、その異能力が使えるように調整する力である。

ー元ネタ(福澤諭吉「学問のすゝめ」の原文)から解釈すると、「人の上に人を造らず」      という状況にには、自分で学問をする力を持っている必要がある。

自分の社員には、そのように学問をする力をもっていけるように、主体的に動けるようになってほしいという社長の思いが異能力に反映されているとも考えられる

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