慶應幼稚舎 合格までに知っておきたい3つの事実

慶應幼稚舎とは、渋谷区恵比寿に所在地のある慶應の小学校で、
創立150周年をむかえました。
わが子を合格させたいと願う人も多く、合格倍率も高いです。

日本一有名な小学校といえるでしょう。
幼稚舎合格のためには、150年間大切に受け継がれてきた福澤諭吉の教えについて、学校のよく理解しておくことが重要であるといわれています。

それは、幼稚舎が、福澤諭吉がたてた慶應義塾大学という私立大学の付属の小学校の一つであることが理由の一つです。

でもどうしてこの学校を「幼稚舎」と呼ぶのでしょうか。

幼稚園ではなく、小学校なんですが。
慶應には幼稚園はありません。

なぜ小学校なのに「幼稚舎」という名前なのでしょうか、なぜ、そしていつからそうなっているのでしょうか。

慶應幼稚舎(正式名は慶應義塾幼稚舎)という学校の名前は良く知られてきていますが、意外にも由来や歴史まではよくわからない、ということは、よくありますよね。

ここでは合格までには知っておいた方がよい3つの事実を、創立当時のことや、福澤諭吉の思い、また幼稚舎の現代のカリキュラムにどのような影響を与えているなどに注目して、分かり易く解説します。

慶應幼稚舎はなぜ、なぜ幼稚舎というのか?

慶應幼稚舎は小学校であるのに、なぜ慶應小学校とか、初等科と言わずに「慶應義塾幼稚舎」という名前なのでしょうか

素朴な疑問になりますが、合格を目指されるのであれば、このあたりの由来も詳しくきちんと知っておきたいですよね。

話は1874年当時にさかのぼります。
このころ、慶應義塾の創立者である福沢諭吉は39歳でした。

すでに慶應義塾(今でいう慶應義塾大学のことで、設立は1858年でした)には、もう全国から大人はもちろん、子ども入塾希望者も現れていました。

そのため、「童子寮(どうじりょう)」という寄宿舎をつくって、12歳から16歳ごろ少年たちをあずかっていました。

これは幼稚舎が出来る前のことです。

また、「学問のすゝめ 初編」が出版された年には、全塾生の2割ぐらいが13歳でだったそうで、つまり、童子寮(どうしりょう)よりも若い年代の子たちがどんどん増えてきました。

福澤諭吉は、このようなもっと小さな子たちへの教育も必要だと考えるようになっていたのです。

ただ、13歳より幼い子どもたちと、それより年上の童子寮の学生たちを一緒に学ばせるのは、年代が違い、基本的な知識や言葉の量も違うので、難しいと感じていました。

そこで、慶應義塾のなかでも、さらに若く、幼い入塾者だけをあつめて学ばせる場所をつくった、これがいまの幼稚舎の始まりなのです。

1874(明治7)年当時は、現代のように、~小学校、~初等科という言いかたはありませんでした。
なので、当時の学生の中でも、特に若い幼稚部の年代にあたるこどもたちの集まりで、幼稚舎ということですね。

幼稚舎のはじまり、創立者、初代幼稚舎長は誰?

さて、先に述べたように慶應の塾生の2割が13歳以下だったことがきかっけになって、13歳以下の子どもたちだけを集めたのが幼稚舎のはじまりたったわけですね。

その幼稚舎の創立は1874年が創立になります。

しかしできた当初からすぐに幼稚舎という名前ではありませんでした。

どのようにして幼稚舎となったのでしょうか?最初は何という名前だったのでしょうか?

それは当初から教育を行っていた人物と関係しています。

福澤諭吉は当時39歳で、自分のこどもに4男と5女をもつ親でした。

自分自身もその年少者へ教育に深い意味を感じていたのも大きなおおきなきかっけともいえるでしょう。

その13歳以下のもっと小さな子たちへの教育を充実させたいという思いの強さから、
福澤諭吉は、信頼していた和田義郎(わだよしろう)に子供たちを託したそうです。

和田義郎とは、福澤諭吉の教え子でもあり、子ども好きの優しい人柄で、柔術(柔道のもとになった武術)の達人でした。

慶應義塾で学んだ後、英語の教員として、三田の構内に住んでいました。

その自宅に子どもたちを預かり、妻と共に教育を行うことになったのです。これがはじまりでした。
当時は和田の苗字をとって和田塾といいました。1874年当時の入塾名簿には28人ぐらいの名前があったといいます。

今と違い、4月にかぎらず、いつでも入塾できたので、人数が少しずつ増えていきました。

規模が大きくなった1880年ごろから、和田塾は、「幼稚舎」と呼ばれるようになりました。年齢は、5歳から13歳ぐらいの人たちが学ぶようになっていったのです。

幼稚舎は、学校の校長にあたるひとのことを、舎長とよびます。

つまり初代の幼稚舎長は和田塾をひらいてくれた和田義郎さんということです。

実際に、1874年ごろの明治初期の見た構内図には「ワカ山和田」大文字があります。

これは、和歌山県出身だった和田義郎の家で、ここに幼稚舎生を預かっていたのです。

この位置は、現在の慶應義塾図書館の休館の位置になります。

その後、三田校舎の老朽化に伴い、幼稚舎は1937年(明治12年)に、広尾ヶ原とよばれる福沢諭吉の別邸のあった現在の広尾に移転したのです。

これが現在の慶應幼稚舎の場所になっているというわけです。

このように、幼い子を、信頼できる人に預けて、学ばせてもらう、というのは昔から行われていたのですね。現代の親世代の考えにも通じる事だと思います。

慶應幼稚舎の独自カリキュラムの今と昔

創立当時からの教えが現在のカリキュラムにどのように影響しているのでしょうか。

幼稚舎の生徒数は、1890年には300人を超えます。

初代幼稚舎長の和田義郎は、実は福澤諭吉より早く、1892年に亡くなり、福澤を悲しませました。和田義郎が亡くなった後は、幼稚舎の運営は慶應義塾にひきつがれます。

しかし初代の和田からの教えが、現在の幼稚舎のカリキュラムにもまだしっかりと影響をうけているのです。

幼稚舎のカリキュラムは、国が定めた公立の小学校とはだいぶ異なります。

昔も今もそうです。福沢諭吉の教育方針である「まずは獣心をなしてのちに人心を養う(まずは肉体を丈夫に成長させて、その上で精神発達を心掛けるべきだ)」を反映して、体育が重視されてきているそうです。

この言葉の意味は、別の記事で詳しく述べていきます。

かつては、午前または午後に柔術の時間がありました。
和田塾の和田義郎先生は紫色の帯をしめて子供たちに稽古をつけました。敷地内に相撲場もありました。授業では低学年から英語に力を入れ、上級生になると地理や歴史、生物、物理などの教科書に英語の原書を使います。これらの教科書は学校から借りる仕組みでした。また理科教育にも力を注がれ、地質学初歩、博物史、窮理初歩、地学初歩などの科目を学んだようです。他には漢書、和漢書、算数、美術、作文、日用文、習字などの科目もありました。クラスは学期ごとの成績で決まり、自分のレベルにあわせてた教育を受ける事が出来たといいます。(「福澤諭吉がわかる」毎日ムック P.33毎日新聞出版より」

1874年とは思えないほど、最先端な取組みをいれているようですね。

最先端の知識をこどもたちへ提供していくというのはとても意義のあることですね。

世の中は常に変化していますし、学びの世界もそうですから、絶えずそのような最新を意識して、また自分に合わせて学んでいく、という教育方針はとても魅力的であるのだと私も思います。

現在では6年間担任持ち上がり制ということで、6年間クラス替えがなく、基本的には担任の先生も代わりません。

担任の先生がもつ教科は、国語、社会、算数
総合(生活)、体育の一部です。
一方、他の教科は、専門の教育を受けた教育が指導にあたっています。理科、習字、音楽、絵画、英語、造形、体育、情報などです。(慶應幼稚舎HPより)

福澤の方針で、体育を重視していることとや、

主要教科以外の専門教科にも力を入れていること、

また創立者の和田義郎の専門であった英語は、幼稚舎の低学年生から行われているということは、かなり昔からずっと続いているようですね。

まとめ

以上より、意外と知られていない3つの事実をまとめてきました。

1880年頃からある幼稚舎という名前をずっといまでも続けているということは、やはり伝統を大切にしているということですね。

また創立当時からの思いや、カリキュラムの一部が今でも受け継がれている、歴史を大事いしていることもわかりました。

また、慶應の小学校だから創立者は福澤諭吉かと思ったら、違いましたね。

福澤諭吉の教え子の和田義郎さんでした。

伝統的である一方、この福澤諭吉がしたような、教え子に大事なことを任せるというのも、1800年代当時の人間からすると斬新的な生き方の一つだったと思います。

教育内容が最先端ということだけではなく、そこにおける考え方、学びや発想が新しい、幼稚舎はそういう場所である、ともいえるのでしょう。

変動していく社会で、このような生き方ができることは、とても貴重だと思います。

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